【書評】『魔都上海に生きた女間諜 鄭蘋如の伝説1914-1940』高橋信也著/平凡社新書/903円(税込)
清朝の王女に生まれて日本軍のスパイとなった川島芳子、日本、中国、満州でスターとなった李香蘭こと山口淑子……日中戦争の最中、いわば2つの祖国を持った彼女たちは、それゆえに時代の激流にのまれた。
本書が追いかけるのは、もう1人の悲劇のヒロインだ。
〈混迷の度を深める国際情勢の縮図とも言える上海で、彼女ら二人に勝るとも劣らない緊迫した状況の、その頂点にいた〉
中国国民党高官の父と、日本人の母との間に生まれた鄭蘋如という女性である。彼女は、堪能な日本語と高度な知力、そして何よりも雑誌の表紙を飾ったほどの美貌を武器に、中国側のスパイとして、モダンな都市文化の陰で列強の陰謀が渦巻いていた「魔都上海」を跋扈した。
この美女がスパイとして活動したのは、わずか2年半。だが、その間、時の日本の首相、近衛文麿の子息・文隆や、親日派の大物・丁黙邨(抗日テロ弾圧組織「76号」のトップ)と、次々と恋仲になっていく。
そうした関係から得た情報を利用し、日本側要人の暗殺を試みたこともあった。そして、暗殺に失敗し、25歳の若さで「76号」と日本憲兵隊により銃殺刑に処せられてしまう。その時「顔だけは撃たないで」と懇願した、というエピソードが残っている。
鄭蘋如はいったい何ゆえに命を賭けてスパイとなったのか。その悲劇の裏側には何があったのか。著者は膨大な資料を検証しながら、彼女の生き様を再現せんとする。その末に浮かび上がってくるのは、人間の運命の数奇さと、日中戦争中の「魔都上海」の毒々しいほどの妖しい魅力である。
※SAPIO2011年10月5日号