福島第一原発事故の放射能漏れで、半径20km圏外だが年間20ミリシーベルト以上の累計放射線量が計測され、計画的避難区域に指定された福島県飯館村。その村長の菅野典雄さん(64)が、現在までの苦悩と奮闘を綴るとともに、未来への思いを込めた著作『美しい村に放射能が降った 飯舘村長・決断と覚悟の120日』(ワニブックス)を出版した。
菅野村長は1946年に村が合併する前に生まれた。帯広畜産大学を卒業後の1970年に村に戻り、家業を継いで畜産農家に。やがてアメリカ流の農業経営を研究し、村で最大規模となる60頭の牛を飼育する酪農家になった。妻は教師で酪農に携わる時間がなかったため、臨時雇用で家族以外の働き手を補うなど、“経営感覚”も養った。
村おこしにも積極的に参加し、若い村民が村について自由闊達に論ずる「いいたて夢創塾」の初代塾長としてさまざまなイベントを企画。なかでも“伝説”となったのが、1989 年から始まった「若妻の翼」プロジェクトだった。
それまで家長を支える役割とされた“農家の嫁”を村のお金でヨーロッパへ研修旅行に行かせる画期的な試みで、外国で自立心を学んだ女性たちは帰国後、体験記を出版したり自家製珈琲の喫茶店を開いたりして、村に新鮮な風を呼び寄せた。
それでも一部の村民からは「態度が生意気になった」「不良妻になった」との苦情があったという。
「『黙々と仕事をするのがいい嫁』という昔からの発想が根強かった。でもこの企画から、男の考えが変わらないと女性が生き生きできないという、時代の流れを学ぶことができました」(菅野村長)
1996年に第5代村長になってからも、多様性を尊重して開かれた村をめざし、全村民の声に耳を傾けると約束した。そしてたどり着いた道しるべが「までいライフ」だった。
「までい」は両手を意味する「真手(まて)」がなまったもの。この言葉は飯舘村で昔から、「までいに子供を育てないと後悔する」などと使われてきた。お茶に両手を添えて相手に渡すときのように、「丁寧に、心を込めて、大切に」、という意味が静かに広がる味わい深い方言だ。
「10年ほど前から村のキャッチフレーズになった『までいライフ』は、いま風にいえば『資源を大切にする』ということ。大量生産、大量消費で『自分だけよければいい』というやり方を見直し、足し算ではなく引き算で豊かさを考えていくことをいいます」
村は「までいライフ」を実践した。男性職員に育児休暇を与え、家庭に子育てクーポンを発行。役場公用車に電気自動車を採用し、学校給食の100%村内産食材化にチャレンジした。エコやスローライフが注目される前から飯舘村には、ゆったりとした人にやさしい時間が流れていた。
しかし、あの日を境に美しい村は大きく変わった。3月11日、東日本大震災が発生、福島第一原発が深刻な状況に陥る。飯舘村は原発から20km以上離れていたが、海から吹き込む風は大量の放射性物質を村に運んだ。水道水、土壌や雑草から高濃度のヨウ素やセシウムが検出され、農村にとって“命”に等しい農作物の作付けが全村域で見送られた。
静かな村に連日、大勢のマスコミが詰めかけた。村長の体重は5kg減り、顔の表面には多くの深い皺が刻まれた。原発事故から数か月のことはあまり覚えていないという。
「毎晩眠れず、食事も喉を通らない極限の日が1か月半ほど続きました。血圧も相当上がり、トップの重責を思い知りました。みんなで作ってきた村を潰してはならないという思いだけが頼りでした」(菅野村長)
※女性セブン2011年10月13日号