興行の世界は暴力団と切っても切れない関係にあるといわれる。暴力団研究の第一人者であるジャーナリスト・溝口敦氏が芸能界と暴力団の関係について歴史をひも解く。
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山口組は二代目山口登の時代から興行を手掛けていた。三代目・田岡一雄は1948年、先代山口登の7回忌追善興行の名で神戸・福原の関西劇場を借り、先代に縁が深い広沢虎造などの出演で浪曲大会を開いている。美空ひばりともデビュー間もなくの1948年、接触を始めた。彼女はこのとき神戸松竹劇場で歌ったが、田岡は11歳のひばりを抱えて新開地通りを歩いたと伝えられる。
興行は山口組経営の大事な柱だった。田岡は1951年、大阪・難波スタジアムでひばりの野外ショー「歌のホームラン」を自主興行したころからひばりを影響下に収めたし、当時の人気俳優、鶴田浩二にも1953年、触手を伸ばした。
正月、鶴田浩二は大阪・千日前、大阪劇場での「百万ドルショー」に出演し、夜は定宿である天王寺区の備前屋で休んだ。田岡の命を受けた若い衆、山本健一(後に山口組若頭、初代山健組組長)ら4人は宿に上がり込み、鶴田の頭をウィスキー瓶とレンガで殴りつけ、鶴田が気を失うと、表に待たせた黒塗り乗用車で走り去った。鶴田は救急車で近くの病院に運び込まれ、頭と手に11針縫うケガを負ったが、俳優の命である顔は何も傷つけられていなかった。
しかし当代の人気者である鶴田浩二を襲って、ただで済むはずがない。事実、山本健一ら実行犯は日ならずして逮捕された。実行犯を誰にするか選任したのは当時の若頭・地道行雄であり、地道は田岡の受けがいい山本健一をあえて選抜し、潰しにかかったともいわれる。だが、地道本人は兵庫県警も捜査資料に特記する名若頭だった。
「地道が若頭になってからの山口組は、四国、中国、九州、大阪、岐阜等へ急速に勢力を伸張させ、各地で凄惨な抗争事件を反復しながら、おびただしい地方組織を吸収、主なものだけでも大阪柳川組、九州田中組、安藤組、二保一家、西川組、谷山組、長畠組、山陰小塚組、同柳川組、四国若林組、岡山熊本組、岐阜菊田組、愛媛大石組など無数にあり、この間、明友会事件、平田会鳥取支部襲撃事件、北九州における工藤組との抗争、岐阜大垣事件、広島における打越会、山村組の長期にわたる抗争事件など、暴力団史に残る大抗争事件のすべてに指揮をとり、百戦百勝、無敵の進撃を続け、山口組と地道の名は全国にとどろき渡ったのである」
兵庫県警でさえ胸を張って誇りにする、抗争に特化した若頭だったことは間違いない。
実は1950年秋、田岡は東映京都撮影所で鶴田のマネジャーに会い、うちの仕事(まだ登記前の神戸芸能社、法人登記は1957年)をしないかと持ち掛けたが、マネジャーは日程に空きがないからと断った。
その年の暮れ、マネジャーは浅草海苔と5万円を持って「鶴田が大阪劇場の正月興行に出る。よろしく」と田岡に挨拶に行った。田岡は5万円を受け取らず、追い返した。田岡とすれば、「5万円ぽっちで、神戸芸能をなめているのか」と思ったにちがいない。そうであるなら、俺とのつき合い方を教えてやる――。
1957年美空ひばりは浅草国際劇場で同い年の19歳の女性から塩酸を浴びせられ、以降、それまで以上の庇護を田岡に求めた。田岡は同年神戸芸能社を法人登記し、その翌年にはひばりプロダクションを設立、その副社長に就いた。ひばりは「おじさんがいてくれると安心」と田岡を頼り切り、田岡もひばりの小林旭との結婚と離婚の後見役をつとめるなど、ひばりの面倒をよく見た。
こうして田岡の神戸芸能社は当時の2大スター美空ひばりと鶴田浩二を支配下に置き、多くの歌手や俳優の興行権を握った。田端義夫、里見浩太朗、山城新伍の他、神戸芸能社の扱い荷物(タレント)には橋幸夫、フランク永井、マヒナスターズ、舟木一夫、坂本九、三波春夫などがおり、山陰、四国、九州での興行権は神戸芸能社のものだった。同社は東京、大阪、岡山に支社を設けた。
田岡はまた日本プロレス協会副会長として浜松以西のプロレス興行権を獲得した。田岡の舎弟である東声会会長・町井久之は協会の監査役として関東、東北の一部興行利権を握った。錦政会(現、稲川会)には静岡と横浜地区、北星会(後に稲川会に加盟)には東北地区での興行権を認め、そのかわり、神戸芸能社の翼下にない歌手、俳優を提供させた。地方の群小暴力団に対しては、神戸芸能社の荷を扱いたいなら山口組に従えと、同社はあめ玉の役割を果たしたのだ。
※週刊ポスト2011年10月14日号