外交には秘密交渉が、秘密交渉には黒幕(代理人=密使)が付き物である。拉致問題で思い出されるのが「ミスターX」の存在だ。北朝鮮側で小泉電撃訪朝(2002年9月)を仕掛けた黒幕だが、その正体は今もようとして知れない。韓国と日本の一部メディアが「ミスターX粛清説」を報じた(6月20日付「朝日新聞」)が、それに異を唱える関西大学経済学部教授の李英和氏は、実はミスターXではなくミセスXもおり、二人が二人三脚で動いていたと指摘する。李氏がその正体を明かす。
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私見では、ミスターXは生きている。それも正確には、ミスターXではなく「ミセスX」である。その手足として、ドラえもん作者の「藤子不二雄」式でミスターX2名が二人三脚で動いた。このミセスXとミスターXは、単に存命なだけでなく、今年になって外交の表舞台に躍り出てきた。
決定的で具体的な証拠があるわけではない。それは、(小泉氏の電撃訪朝時の日本側の代理人だった当時のアジア大洋州局長)田中均と外務省が握って離さない。だが、筆者が独自に得た状況証拠を積み重ねれば、ミセスXとミスターXの正体に肉迫できる。
結論に先回りすれば、ミセスXは金正日の現夫人で国防委員会課長の肩書を持つ金玉(キム・オク)秘書(47歳)。ミスターXは今年になって6者協議の北朝鮮代表に就任した李容浩外務次官(57歳)とその実兄(軍人=氏名・年齢不詳)である。
北朝鮮外交で密使の役目を演じるのは、金正日の側近中の側近である。それも史上初となる重大な首脳会談となれば、事実上、密使は金正日の家族に限られる。金正日と密使の双方は「絶対に裏切らない」「かりに失敗しても生命に別条ない」と確信する必要があるからだ。
事実、2000年の南北首脳会談(金大中-金正日)で、密使の大役を務めたのは金正日の長男=金正男だった。金正男は偽造旅券を駆使して極秘に何度も訪日し、韓国の密使(当時の国家情報院長)と秘密接触を繰り返した。
密会の舞台に日本を選んだ理由は2つ。ひとつは人目を避けるため。自国の政敵やメディアを欺き、周辺諸国の情報機関による監視網が弱い場所が選ばれた。もうひとつは、韓国政府が金正日に手渡す約束の莫大な裏金(7億ドル)の存在。日本の銀行には多数の秘密口座が開設されていた。
金正男は、密使の大役を成し遂げた功績で、後継者の地位を不動にした。ところが、翌2001年5月、金正男が家族と共に成功体験の地である日本を再び訪れたとき、運命は暗転する。
成田空港で偽造旅券行使の容疑で日本政府に拘束されたのである。関係諸国の情報機関は、驚愕した。情報機関の間では、金正男の偽造旅券行使は周知の事実であり、逮捕せずに尾行・監視するのが不文律だからである。ありえない、あってはならない逮捕劇だった。
金正男を敵視する北朝鮮の内部勢力が仕組んだ謀略事件。各国情報機関の間では、これが定説である。
ともあれ、金正男はこの成田事件で後継内定を棒に振る。田中均が「ミスターX」と秘密交渉を始めたのは、成田事件の数か月後、2001年の秋からである。したがって、ミスターXは金正男ではありえない。それ以外の家族ということになる。それも金正男を実子のように可愛がる金正日の妹夫婦(金敬姫-張成沢)と張り合う実力者となる。
そうなると、当時の金正日夫人=高英姫が浮上する。2009年に後継者に内定した金正恩の実母とされる在日朝鮮人の帰国者だ。しかし、高英姫は2002年の夏に平壌市内で謎の交通事故に遭い、頭部に瀕死の重傷を負った(2004年5月、パリでの治療の帰途、モスクワで客死)。金正男が成田空港で拘束された1年後の出来事だった。したがって、ミセスXは高英姫ではない。ましてや当時未成年だった高英姫の次男や三男(金正恩)ではありえない。
消去法で追って行くと、金正日の第4夫人=金玉秘書が浮かび上がる。金玉は「喜び組」のピアニスト時代、金正日に見染められた。その後、個人秘書室に抜擢され、愛人秘書として頭角をあらわす。そうして高英姫夫人公認の愛人として「ロイヤルファミリー」の一員になった。つまり、「張成沢-金敬姫-金正男」と鋭く対抗する高英姫の同盟者だった。
しかも、金正日の寵愛を受ける単なる愛人秘書ではなかった。外交手腕の点でも金正日から全幅の信頼を得て、金正男と並んで密使の役割を演じもした。
2000年10月には、国防委員会の趙明禄第1副委員長(故人)の訪米に身分を隠して同行している。いくら軍長老とはいえ、金正日は趙明禄を信用しなかった。そこで、金玉秘書を監視役に付け、米朝交渉の実質的な下準備をする密使としてワシントンに送り込んだ。奇妙なことに、アメリカ政府は現在に至るも、金玉訪米の事実を公式には確認しようとしない。
この秘密訪米の際、金玉秘書の通訳係を務めた人物が、新たに6者協議の北朝鮮代表に就いた李容浩外務次官だった。両名の浅からぬ因縁を物語る。
その後、李容浩は外交官に抜擢され、2007年に平壌へ舞い戻るまで欧州の大使を歴任した。
※SAPIO2011年10月26日号