新聞で「批判が出そうだ」なる表現が使われることがある。そこには記者の思い込みや大衆迎合の要素が潜んでいることはないのか、東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川幸洋氏が解説する。
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新聞やテレビの報道は一応「中立で客観的に事実を伝える」という建前になっている。第一報を伝えるストレートニュースはとくにそうだ。
ところが最近、「記者の主観や思い入れが入っているのではないか」と疑われるようなスタイルが広がっている。記事の末尾に「批判が出そうだ」という一文を付け加える例が典型的だ。
たとえば、自民党の石原伸晃幹事長が講演で米中枢同時テロについて「歴史の必然」という言葉を使うと「テロを『必然』と表現したことは不適切との批判が出そうだ」(共同通信、9月10日配信)と報じられた。
鉢呂吉雄前経済産業相が会見で使った「『死の町』との表現に配慮を欠くとの批判も出そうだ」(同、9日配信)、東京電力への官僚天下り問題では「行政と電力業界の『癒着』として批判が出そうだ」(読売新聞、26日配信)といった具合である。
この3つの例では、カギカッコの中に必然とか死の町、癒着というキーワードを挿入している点も注目される。「テロは必然」とか「死の町」という言葉を切り取って書けば、そのまま見出しにもなりやすい。
こういう記事のスタイルは一歩間違えると「言葉狩り」を助長する恐れがある。発言全体の脈絡や場の雰囲気などを捨象して、キーワードだけが独り歩きする。その結果、そんな言葉や言い回しが禁句と化してしまうのだ。
それでいいのだろうか。
メディア側の理屈を言えば、事実だけを淡々と報じるのではなく「事実が引き起こすであろう事態の見通しも伝えることによって全体像を明らかにする」という言い分があるだろう。
それはそれで大事なことだ。読者がニュースを「え、そんなことがあったの」と受け止めた後に「それで、どうなるの」という疑問を抱くことはしばしばある。そんな疑問にあらかじめ答えておくのは丁寧でもある。
だが、記者が予想した「事態の見通し」が勝手な思い込みだったり、浅薄な大衆迎合だったりするとやっかいだ。賢明な読者をも大衆迎合に誘導する結果になってしまう。
それは鉢呂の「死の町」発言で典型的に表れた。それまで新聞には「ゴーストタウン」という表現が何度も飛び交っていたのに「死の町」はダメという相場観が広がって、鉢呂は大臣を辞任するはめになった。
メディアが作り出した「言葉狩り」と言ってもいい。「批判が出そうだ」という一言が、そんな事態を助長した面は否定できない。本来、自由な言葉や表現を生命線にしているはずのメディアが自ら言葉を不自由にしてしまったのである。それではメディアの自殺行為ではないか。
では、どうしたらよいか。
記事は事実報道と批判をごっちゃにしない。ストレートニュースは事実関係や発言の脈絡をあきらかにする役割に徹する。批判は別立てとし、署名も入れて記者の顔と論点をはっきりさせる。浅薄な批判をすれば、記者が読者から批判され信頼を失う仕組みにして、自然淘汰を促すべきだ。
一方、読者は「批判が出そうだ」記事に出会ったら「ああ、また言ってるな」程度に受け止めたほうがいい。
この例に限らず、記事のスタイルには流行がある。ひと昔前にはやったのは「成り行きが注目される」原稿だ。これは何も伝えていないに等しいので、さすがにいまは消えた。「批判が出そうだ」というのも、やがて消えるお手軽な流行に違いない。だれもが真似するスタイルには、必ず批判が出るからだ。(文中敬称略)
※週刊ポスト2011年10月21日号