巨人とのCS進出争いでふがいない戦いを続ける真弓阪神を見て、“またあの頃に逆戻りするのでは”と心配する虎ファンは少なくないはずだ。その思いは、かつて阪神球団社長として「ダメ虎体質」にメスを入れた野﨑勝義氏も抱いている。
野崎勝義氏(69)は、1996年に球団常務としてタイガースに出向。2001~2004年まで球団社長を務めた(2007年退社)。初の外様監督である野村克也、星野仙一両監督の招聘に関わった野崎氏が、星野監督時代のエピソードをこう語る。
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私と星野さんとの最初の出会いは、1997年のオフ、中日と阪神の間でまとまりかけていたトレード話の時でした。阪神では、トレードは基本的に、現場でリストアップした選手を他球団のリストと照合して、交換条件を決め、本社の承認をもらう形で進行します。
当時、ウチは捕手の補強が必要だったので、中日の中村武志を獲得したかった。複数トレードがまとまったのですが、こちらから放出するリストに、当時売り出し中の桧山進次郎の名前があったため、本社からNGが出て破談になってしまったんです。それを聞いて星野さんは、
「現場でできた話もダメになってしまうんか。だから阪神はダメなんだ」
と一刀両断された。怖い人やなという印象(笑い)。でも、人事一つでも力のある監督に全権を任されたチームはこうも強いのか、ということを知りました。
星野さんの野球に対する情熱はすごかった。FAで中村紀洋を獲ろうとした時(2002年)のことです。秘密裏に交渉を進めるため、星野監督はマスコミをまくために、交渉場所のホテルの地下駐車場から、タクシーのトランクに隠れて脱出した。そこまでやるか、と思いましたね(笑い)。
野村さんもそうでしたが、主力を二軍に落とす時には本人と事前に徹底してよく話をしていた。チーム事情と今後の扱いをきちんと説明すれば、選手も納得します。星野監督が2年で辞めたのは「勝ち逃げ」だなどといわれましたが、とんでもない。当時の主治医の診断内容は忘れられません。
普段110の血圧がユニフォームを着ただけで150になり、ゲームの進行につれてさらに上がっていく。現場では2種類の降圧剤をのむストレス性の高血圧でした。「そのまま続けると死に至る」と、本当に医師からいわれていました。私はもっと星野監督に続けていただきたかったが、無理はいえなかった。
※週刊ポスト2011年10月21日号