記者会見の現場で政治家の「説明責任」を問う新聞記者。だが、いまは同時に記者の「質問責任」も問われているという。東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川幸洋氏が解説する。
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民主党の小沢一郎元代表に対する裁判をめぐって「説明責任」という言葉がマスコミで飛び交った。「裁判とは別に、国会の場などで政治家としての説明責任を果たすことも改めて求めたい」(読売新聞、10月7日付社説)という主張が典型的だ。
小沢の記者会見でも「国会での説明責任を果たす考えはあるか」と記者から質問が出た。ところが、小沢は「君はどう考えているの。司法は司法で独立している」と切り返し、逆に記者をやり込めてしまった。
ここで記者がひるまず、もう一押し二押しすれば、小沢の考え方があきらかになる絶好のチャンスだったのに、残念な一幕だった。
最近の記者会見に行くと、とにかく下を向いて、ひたすらキーボードに相手の発言内容を打ち込んでいる記者の姿が目立つ。これでは相手の言葉を入力するのに精一杯で、とても質問を考える余裕もないだろう。
私が現役記者だった20年前はこうではなかった。どうしてこうなったかと言えば、デスクや同僚と会見内容を共有するためだ。パソコンで情報を送るのが簡単になったせいもある。
紙面や番組展開のために「チームで情報を共有する」と言えばもっともらしく聞こえるが、実は会見内容をそのまま大量に送る記者ほど「仕事をしている」と思われて、デスクの覚えがめでたくなる事情もあるようだ。
だが、記者もデスクも情報を共有すれば仕事が終わった気になって、肝心の質問力が衰えているとしたら、まったく本末転倒ではないか。
相手が大量の資料を用意して説明すると、資料を読み込めないまま時間切れでおしまいといったケースもある。東電関連の会見が典型的だ。これをどう乗り越えるか。政治家や役人には説明責任がある。だが、記者にはもっと大事な「質問責任」があるのだ。
※週刊ポスト2011年10月28日号