市場規模20兆円、パチンコ業界の雄である<マルハン>の韓昌祐(ハン・チャンウ)会長。密航船で下関に着いてから64年、パチンコ界の巨人となったハン会長は、<マルハン>という名に、どんな思いを込めたのか。作家の山藤章一郎氏が報告する。
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峰山町、現在の京丹後市、11月初めの午後、小さな市場にも川筋の通りにも人の姿はまばらだった。かつて、この川沿いに料亭、お茶屋がひしめき、200人を越す芸妓がいたという。昭和30年代初めである。
色町もあった。だが、着物を着る文化はすたれ、町は寂れる。この川近くの新地通り、別名・親不孝通りに〈るーちぇ〉という名曲喫茶があった。ラテン語で〈光〉〈ともしび〉の意味である。
54年前〈るーちぇ〉で働いていた中村文子さんに跡地を案内してもらった。「ここや、ここですわ」
砂利まじりの空き地の奥に置き忘れられたような小屋がある。ガラス越しに覗いてみた。古びた机にサイフォンが3本、載っていた。これがハン氏の築いた〈マルハン〉王国の出発点である。
京都から幾山も越えた地のモダンな喫茶店である。歌謡曲、演歌が大嫌い。クラシックしか聴かないハン氏のいわば趣味の延長だった。もの珍しさに、客があふれた。
クラシック熱は歳とともに昂じて、現在〈東京フィルハーモニー交響楽団〉の理事を務めているハン氏と店を、中村さんは偲ぶ。
「ハイカラな店でした。会長はレジ、奥さんがコーヒー運んでね。私、舞鶴で生まれ育ったけど『この朝鮮人』といじめられて泣いておったんです。17、8歳の頃。
そしたら知り合った会長さんが『もっと誇りを持て』『朝鮮人のどこも悪くない』と心を鍛えてくれた。うちで働けともいうてくれて。
会長もいろんな思いがあったでしょうに、差別、軽蔑を撥ね返してきた。息子たちに韓流を名乗らせ、祖国に対する魂は持ってはる。それでいて日本に恩返しせえというてるんです」
〈るーちぇ〉の営業も順調に乗って、数百メートル離れた大通り沿いにも店を出した。こんどはパチンコ屋だった。パチンコ玉は丸い、夫婦、家族も円満なら円い。地球も丸い。よいことは、丸い。この〈マル〉に自分の民族名〈ハン〉をつけた。
〈マルハン〉第1号店である。
※週刊ポスト2011年11月18日号