東日本大震災から早くも8か月が経過した。宮城県石巻市出身のコラムニスト・木村和久さんが、縁のある人々の安否を自身の足でたずねながら、震災直後から現在の状況をレポート。全校児童108名のうち7割が行方不明や亡くなったりした石巻市立大川小学校を訪れた。
* * *
正直、大川小学校が近づくにつれてとても気が重かったです。日本第5位の長さを誇る大河、北上川の堤防の上にできた道路を延々と河口に向かって進みます。するとまず右手に大川中学校が見えます。そこは校舎が残っており、被害も軽微で済んだようです。
やがて左手にライトグリーンの大きな橋が見えてきます。それが北上川に架かる新北上大橋です。堤防が津波によってえぐられ、川が氾濫し、付近の田んぼが水浸しになっている様子がよくわかります。いまでは水位もだいぶ低くなっていますが、この大きな橋を越えて津波が来たと思うと、ぞっとします。震災当日は橋の数十cmくらい上まで増水したといいますから、子供の足ではさらわれてしまうでしょう。やはり避難経路としては、正解ではなかったんですね。
そして新北上大橋のたもとから、右斜め前方に被災した鉄筋コンクリートの建物が見えます。距離にして200mほどでしょうか。それが大川小学校です。
目にして最初に思ったのは、「なんて低い位置に建物があるんだろう。これでは堤防が決壊したら、ひとたまりもなかったに違いない」ということ。なにしろ小学校の2階部分でも、堤防より低いのですから、物理的には堤防が命綱となります。
さらに大川小学校に近づいてみると、鉄筋の外枠のみが残っており、ところどころ穴があいて、津波の凄まじい破壊力を感じます。
校門付近に祭壇が設けられ、たくさんの花束が供えられていました。恐らく関係者のかただと思いますが、親子でその祭壇付近に砂利を敷いて歩きやすいようにされていました。
祭壇には、行方不明になったままの娘さんへのメッセージなどもイラスト入りで供えてあります。それを読もうと近づきますが、涙が溢れ出てきて正視できませんでした。さぞかし無念だったでしょう。ほかの学校の児童は、ほとんど助かっているのに、なんでここだけなのか? 地震後、津波到達まで1時間近くも余裕があったのに、どうして逃げられなかったのか? 口でいうのはたやすいですが…。ひたすら祭壇に手を合わせるしかできませんでした。
※女性セブン2011年11月24日号