かつて、小澤征爾らとともに、世界の舞台で喝采を浴びた天才音楽家がいた――2010年、第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞した「鶴田錦史伝―大正、昭和、平成を駆け抜けた男装の天才女流琵琶師の生涯」に大幅加筆した『さわり』(小学館)が出版された。
さわり――とてもおもしろく、よくできている部分の意。歌舞伎などで「さわりを観る」というと、長大な演目の有名な場面だけを観ることをいう。邦楽では、他の流派を使った部分を指す言葉で、またかつては月経のことも“月のさわり”などといっていた。
そして、琵琶特有の一筋縄ではいかない響きのことも。どこか耳に「障る」ような複雑な音こそを、何より琵琶という楽器は重視してきた。本書の主人公・鶴田錦史の複雑な人生を語るのに、これ以上の深い書名はない。
錦史は、小学生のときにすでに天才といわれた琵琶師だ。それなのに、演奏家としてもっとも脂が乗る時期に琵琶を捨て、水商売などの実業界に転じる。しかし、長い空白を経て、琵琶の世界に戻り、“世界の小澤”こと小澤征爾らとともに素晴らしい演奏で、世界的な称賛を浴びる。
その“表”の部分だけでも充分興味深いのに、私生活では、結婚して2児をもうけた後に男装となり、美しい“妻”もいたとなれば、興味が湧かないはずがない。こんなに複雑で多彩な人物と、『さわり』の著者でサイエンスライター、ビジネスライターとして活躍する佐宮圭さん(47)との出会いは、彼女の琵琶に魅せられたある女性から、「鶴田錦史の伝記を書きませんか」といわれたことがきっかけだった。
「2000年の冬でした。『歴史に残すべき人なのに、世の中から忘れ去られている。ぜひ書いてください』といわれたんです。でもそのとき、私は錦史の名前も、琵琶を聴いたこともなかった」(佐宮さん)
資料として渡されたCDを聴いて、びっくりした。
「琵琶の音色を聴くのは初めてでしたが、“これはなんなんだ”という響きで驚きでしたね。ものすごい音楽の圧力というのか、表現力に圧倒されたんです」(佐宮さん)
資料として添えられていた写真の人物は、堂々とした体躯を見るからに高価な背広で包んでいる。「この男性が錦史なんですね」というと、返ってきた言葉は「錦史は女性ですよ」。混乱するばかりだったが、それ以上に興味がつのった。
「錦史の奏でる琵琶は、ほかの誰が奏でる音とも違う特別な響きで、その音に魅入られて弟子になった人も多く、そして、彼女の弟子になった人は、みんな人生が変わっていったといいます。そんな力を持った錦史とはどんな人だったのか。達人ほどその演奏には人生が表れるといわれますが、どんな人生を歩んだらこの音を出せるのか、追究しないではいられなかった」(佐宮さん)
※女性セブン2011年11月24日号