遠く江戸時代から植林され、計7万本もの松が連なって見事な景観を誇っていた陸前高田市の「高田松原」。3月11日の大津波で樹木は無残にもなぎ倒され、その景観は一変した。いまそこにあるのは、奇跡的に生き残った1本の松の木。人々はそれを“希望の木”と呼び、明日への生きる力としている。自分自身、1964年の新潟地震で津波に襲われた経験をもつ作家の新井満さん(65)は、その一本松に「母から子へと継がれる命」を感じ、一編の詩を書き上げた。
<あの日、大きな津波が襲いかかってきたあの時、わたしはあまりの恐ろしさに、思わず両手で耳をふさぎ、まぶたをとじました。わたしは意気地のない弱虫だったのです。
でも、父さんはとても勇敢でした。父さんはわたしをかばうように、仁王立ちに立ちはだかりました。それから、ものすごい勢いで押し寄せてくる津波に向かって、叫びつづけたのです。
「くるな――!」>
松の木の必死な叫び声にもかかわらず、あの日、津波は三陸の浜辺に押し寄せた。そして、人々の暮らしも、美しい海岸の風景も、一瞬にして無残な姿に変えてしまった。
そして、たった1本の松だけが残された。その松に心を打たれた、作家であり『千の風になって』などの作曲者でもある新井満さんは、その思いを散文詩集『希望の木』(大和出版)にしたためた(<>は同書よりの引用。以下同)
岩手県陸前高田の高田松原は、その名の通り、古くから松の名所として知られていた。7万本の松並木が約2kmに渡って続き、海と高田の人々の営みを見つめてきた。
高さ25m前後の松の連なりは、地元の人々の誇りであるばかりでなく、月明かりの夜も、雪の朝も、多くの観光客を集め、四季折々の美しさを引き立ててきた。そんな松林にも、3月11日の大震災で、巨大津波は容赦なく襲いかかった。一瞬にして松林を根元からすくい、なぎ倒し、海へ陸へとあとかたもなくさらっていった。
あとには、たった1本の松だけが残された。この光景を見たとき、地元の人々は言葉を失った。あまりにも身近にあって、親しんできた松林が消えてしまうことなど考えてもみなかったから…。
「この松原は、約350年前の江戸時代に、当時の高田村の人たちが、農地を守るために植えたんです。最初に植えた人の子孫もいらっしゃいますよ」というのは、高田松原を守る会の副会長・小山芳弘さん(60)。潮風や砂が飛んできて作物も思うようにできなかった土地に、村人が力を合わせて植林し、防潮林としたのだ。
こんな努力が、恵みの農地をもたらしたばかりか、散策やジョギング、さらには岩手県でいちばん大きな海水浴場としても、人々の暮らしをいろどってきた。
「それにしても、不思議だよね。なんで1本だけ残ったのかね。奇跡だね」と、前出の村上さんは妻のフミ子さん(63)と、折にふれて話してきたが、新井さんも同じ思いを抱いた。
「1本残らず全滅したといえば、あの被害の大きさだったのだから、ああ、そうなんだろうなと思うし、5、6本残ったと聞けば、ああ、そういうこともあるだろうな、と思う。でも、なぜたった1本だけが残ったのか、そう考えると、残った1本の松のことが一時も頭から離れなくなりました。そして、いつしか擬人化して考えるようになったんです」(新井さん)
単なる植物、たかが樹木とは思えなかった新井さんは、この1本はいったいどんな顔をしているんだろう、ひとり残されてどんな日々を送っているんだろう、と考えるようになった。たどり着いた考えは、7万本の松がすべてファミリーだったのだ、ということ。新井さんが続ける。
「津波が押し寄せてきたとき、瞬間的にファミリーは考えたと思うんです。このままでは自分たちは全滅してしまう。ひとりでいいから、家族の誰かを残そうと。そうすれば、自分たちのDNAは存続し、次世代に伝達していくことができる、そう判断したんじゃないでしょうか。
“あの子を助けろ!”“あの子を守れ!”と声をかけあって、ある松は身をくねらせ、ある松は枝を広げ、津波の防波堤となって、家族の松を守った。その結果が、あの一本松になったと思うんです」
7万本の家族が守った、たったひとつの命。
「だから、この松は、究極的に選ばれた存在なんです。神の配慮、天の配剤であって、人智をはるかに超えたところに存在する家族の大きな絆が残した奇跡的な松だと思います」(新井さん)
※女性セブン2011年11月24日号