江戸時代から植林され、計7万本もの松が連なって見事な景観を誇っていた陸前高田市の「高田松原」。3月11日の大津波で樹木は無残にもなぎ倒され、その景観は一変した。いまそこにあるのは、奇跡的に生き残った1本の松の木。人々はそれを“希望の木”と呼び、明日への生きる力としている。
しかし一方で、現実には母と息子の、やりきれない物語もある。
市内金剛寺の仮設住宅で暮らす佐藤テル子さん(72)の長男・昇一さんの遺体は、震災から1週間後に見つかった。いったんは無事に避難したものの、逃げ遅れた近所のお年寄りを助けに行き、背負って高台に逃げる途中で、津波に襲われ、帰らぬ人となった。48才だった。
「まだ幼かったとき、夏のお祭りで高田松原へ行って、駄菓子を買って、とねだられた声、その声に負けて駄菓子を買ってやった。その息子が、自分よりも先に、こんなに早く逝ってしまうとは…」と佐藤さんは声を震わせる。
「悲しくて悲しくて、どうしようもなかった。だけど、人を助けに行って亡くなったんだから、息子らしいなあと思います」(前出・佐藤さん)
亡き息子が、いまはあの一本松に見えてくる。
「だから、毎日、一本松を見ては、話しかけてるんです。“こんなひどい目にあったけど、おまえが最後まで頑張って人助けをしたように、私たちも頑張って生きていくからね”って。だから、一本松にはなんとしても元気になってもらいたいんです」
佐藤さんの切ない叫びだ。
市内で食堂を経営する工藤珠美さん(45)も、被災地に生きる者ならではの、やはり厳しい現実に直面している。復興は思うように進まず、仕事もなく、若い人たちは市を出て行く。
「そんなところへ、県外の人がやってきて、一本松のところで記念写真を撮っていく。私たちの気持ちもわからないで、という思いでムッとしていたんです」(工藤さん)
でも、いつしか心境が変わった。地震、津波から半年が過ぎてから、被災地は忘れ去られようとしている、と気がついたからだ。避難所が閉鎖され、人々の暮らしが仮設住宅へ移るとともに、新聞やテレビの取材も来なくなった。
「でも実際は何も変わっていない。それでいて、私たちは忘れ去られている…。被災地見学ツアーでも、一本松見学ツアーでもなんでもいい。ここに来て、こんなひどいことになった地を、ひとりでも多くの人に見てほしい」
工藤さんはそう訴える。
「その意味でも、たった1本になった松は、復興を託す私たちの希望の木なんです」
ところで、一本松に「私たちも頑張る」と誓った前出・佐藤さんには、震災の翌日に孫が生まれた。次男のふたり目の子だ。
「希美=のぞみってつけたんだよ。その孫がすくすく育っている。こんなときだからこそ、希望を持って美しく生きてほしい、って家族みんなで相談して決めたんだよ」
いまでは一本松と孫と、ふたつの希望を支えに、生き抜いていこう、と自分を励ましている。
※女性セブン2011年11月24日号