全国の女性に体当たりし、その研究の集大成として『日本女地図』を記した俳優の殿山泰司(1989年死去 享年73)には2人の女がいた。愛する男を見送るとき、二人は手を取り合って最後の別れを惜しんだという。奇妙奇天烈とも言える関係は、こんなストーリーだった。
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タイちゃん(=殿山)には墓がふたつある。鎌倉と京都に。死んでもおちおち寝てられませんといっているか、ふたりのオンナに愛されて果報者やというてるか、よく分からん。
――「ババア」と「側近」。20歳で同棲した曙子さんが「鎌倉のババア」。36歳の時、京都で喫茶店のウェイトレスやってた17歳のすーちゃんに「愛してまっせ。食べてしまいたい」と口説いて東京に連れてきたのが「赤坂の側近」。
結婚には親の許しが要る。親、鋭く問う。「あんさん、私の娘の貞操奪いなはったんですな」あわあわ言い訳しながら「神に誓って私は真剣であります」「あんさん、娘と歳なんぼ違う、独身でっしゃろな」おー、神よ。後略。
上京してすーちゃん、「約束どうり、鎌倉と別れておくんなはれ」。
タイちゃん、渋々鎌倉に行った。曙子さん笑い飛ばす。「あんたが18、あたしが17。戦後の闇市で一緒に苦労してきたのよね。でも、まだ籍を入れてないから、離婚もへったくれもないでしょ。離婚するためには結婚しなきゃいけないわね。そうだ、結婚しましょ、籍入れましょ」
タイちゃん、がっくり肩落して赤坂に戻る。すーちゃん、わめく。「鎌倉のおばはん、喧嘩売るいうのか」
編集部・註解――このあたり、実際に見てきたわけではない。新藤兼人監督の著『三文役者の死』および、同監督が竹中直人にタイちゃんを演じさせた映画『三文役者』に準拠するものであります。映画では鎌倉が吉田日出子、赤坂が荻野目慶子。暑っ苦しい演技派が火花を散らす。
新藤監督に「タイちゃん」の話をうかがおうとすると、〈近代映画協会〉は、映画のとうりですから、あれを使ってくださいと。註、終わり。「売られた喧嘩は買うたら、ええのんや」オギノメじゃなかった、赤坂がタイちゃんの胸倉を掴む。
のちに鎌倉が養女を取る。それを知った赤坂、「こうなったらおなごの意地や」と叫んで養子を迎える。タイちゃん、鎌倉に養女の顔を見に行く。鎌倉、身ィよじる。「タイちゃん、たまには私を抱いてよ。たまには、本妻さんも可愛がってよ」
鎌倉駅に近い路地で小料理屋をやっていた曙子さんはタイちゃんの歿後、『婦人公論』に追悼文を寄せている。
「野良犬みたいに出たり入ったりしている人の首に縄をつけてもしようがないと思ってました」「赤坂に女の人といるのは聞いてましたが、私には、大事な人でした。運命共同体という感じの」「寂しい、内向的な、傷つきやすい人だったんです」
鎌倉と赤坂それぞれ、タイちゃんの密葬に参列した。鎌倉は、赤坂の顔をみとめるなり駆け寄った。
「長いあいだご苦労さまでしたね。オヤジをずっと看取ってくださって、あなたも寂しくなるわね。お骨はふたつの壺に入れましょう。ひとつはあなたが供養してくださいね」
30年を経た、初めての顔合わせだった。手を握り合って泣いた。タイちゃんは、70歳から日記をつけた。いちばん初めに「余の人生は浮草の如くなり」と書いた。
新藤監督は、弔辞でタイちゃんの一生をむすんだ。「ただ、どうもどうもと消えてしまったのです」
※週刊ポスト2011年11月25日号