橋下徹・前大阪府知事の「出自」が週刊誌で報じられ話題になった。同氏が育った、新大阪駅から徒歩10分「同和地区」の風景はいまはどうなっているのか。作家の山藤章一郎氏が報告する。
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橋下少年の過ごした団地は、路地の行き止まりにあるように見えて、ぐるっとロの字型にまわり込む位置にあった。
ロの字のなかに、枯草が生えている遊び場と本箱を連想させるふたつの小さな団地がある。老朽化した外壁が、雨降りのむこうによけいにくすんで見える。真ん中に薄暗がりの階段がつき左右に部屋が分かれたつくりの3階建て、6室の団地である。
6室とも、日避けのよしずのすだれを窓に吊るしている。いちばん上の2号室2DK、橋下少年はここで妹、保険の外交員をする母と3人で暮らした。
父は、息子が小学校2年のときにガス自殺したと報じられている。府営住宅の抽選に偶然当たって、入居できた。一家は同和とは無縁で、母は、地域から〈同和対策〉による家賃補助を勧められたが受けなかったという。
この母は『週刊ポスト』(10年8月13日号)で、それまでの「ハシシタ」姓を「ハシモト」に変えた心情を洩らしている。
「この子は、橋の下を歩むのではなく、橋のもとを見て注意深く生きていくように、と願って変えました」
部屋にはいまも人が住んでいる。まわりに同じような団地がひとつ、さらに周辺に中層のマンションや低い軒並みがつらなる。
〈飛鳥地区〉からは、高名な上方漫才師、芸能人が多く出ている。プロスポーツ、やくざの世界に身を投じた者もいる。
新大阪駅開業の2年前、北陸からこの地に来たお婆さんは、橋下の住んだ団地からほど遠くない場所で雑貨屋を営む。
「そらあんた、来た当時はボロボロのバラックばっかり、それが府営住宅やで。わたいも、土地が安いんでここに来たのやが。ところがあんた、新幹線さまさまや。あれが通って、ええ住宅がボコボコできた。広い道路もな、できた。
昔の面影ありません。そらもう変わりましたで。しかし、土地は変わってもあんた、人は変わらん。あいかわらず、あくどい差別をするもんがおって、苦しむもんがおって。
苦しむのはな、市の清掃局の仕事してる人、多かった。大八車牽いてな。コルタン(コールタール)塗りの木箱に入っとる生ごみを市のカゴにばさっと放りこむねん。
木箱にハエが卵産む。ウジ湧いて、ものすごい臭いや。あとは、肉処理の仕事や。くさいとか汚いとか、はたから文句をいう。しんどい辛い仕事をしてもろうてるのに、差別する文句たれる。
人いうのはむごいもんでんなあ、あんた。まあ少しずつ良うなってきたが。いまも差別あるで。これをなんとしても、なくさなあかん。
そうや、あっこの橋下はんの住んだ団地は変わっとらんわな。ここへ選挙応援に来たとき、解放同盟のこと、ここの出身やいうこと、母校のこというてな。肌で被差別を体験した知事や。わたいは橋下さんがここで育ったいうことを誇りに思うてます」
※週刊ポスト2011年12月2日号