兵庫県姫路市で11月12日、13日に開催された『第6回B-1グランプリ』は、岡山県真庭市「ひるぜん焼きそば」の優勝で幕を閉じた。過去最高の63団体が出展した今回のB-1で、ひと際盛り上がりを見せていたのが第4位に入賞した福島県浪江町の「浪江焼麺太国」だ――。
3月11日に発生した東日本大震災。浪江町にもあの津波は襲いかかり、死者、行方不明者約200人の被害が出た。そして福島第一原発の爆発事故により、10~20km圏内に位置していた町には震災3日後の3月14日、全町民に避難指示が出された。「浪江焼麺太国」のリーダーである八島貞之さん(43)は、こう話す。
「浪江は、帰れない町になってしまいました」
「太国」のホームページを作ってくれていた仲間は、津波に消えた。中心メンバーもみんな、あちらこちらに散ってしまった。八島さんは妻と小学生の長女、長男とともに、県内二本松市の岳温泉で避難所生活を強いられた。
「子供たちも転校を余儀なくされたのですが、そこで、いじめにあって。いや、私がそう思い込んでいた。子供たちは“内部被曝だ~”とかいって遊んでいるだけだったのに、それをいじめと誤解してしまったんです。子供本人はけろっとしたもんだったのに、親に余裕がなかったんですね」(八島さん)
せっぱつまった生活の中で、八島さんの心に芽生えたのは、「浪江町のみんなを、もう一度どこか1か所に集めたい」という思いだった。
「家族がばらばらになってしまったという人がたくさんいます。ご当地グルメを通して作り上げてきたコミュニティーもばらばらになってしまった。被災者のなかには被災者であることにすがろうとする人もいます。一方で、被災したけれども頑張ろうという人もたくさんいる。私は純粋に、またあの楽しい仲間と一緒になりたいと思った。そのためにも、浪江の人たちが浪江に帰れるまで集まることのできる代替地が必要だと思っていました」(八島さん)
そのためにまず、できること。それが「焼麺太国」の再建だった。メンバーのひとり、浪江町の不動産会社で働いていた橘弦一郎さん(38)は、震災から数日後には、妻とともに妹を頼って、滋賀県に避難していた。
「なにしろ原発が爆発した。もう浪江には戻れないだろうと、あきらめかけていました」(橘さん)
そこへ、八島さんから電話が来た。
「おれたち、このまま終わってはいけないんじゃないかな。浪江に戻れないなら、どっかに浪江町をつくろうぜ」
八島さんからの呼びかけに、「そうだな、やろう!」橘さんはそう答えていた。聞けば八島さんは、避難する際、「焼麺太国」のメンバーで作ったそろいのつなぎを自宅から持ち出していた。
「私はそこまで気が回らなかったのに、ほかにもつなぎを持ち出していた仲間がいました。原発が事故を起こしたというなかで、みんなすごいなと思いましたよ」(橘さん)
いてもたってもいられなくなった橘さんは、つなぎを取りに3月末、ひとりで浪江の自宅に戻った。
「2年前に建てたばかりの家は何事もなかったように住んでいたときのままでした。なんでここに住めないのかと思う一方、放射線は見えませんから、ものすごい恐怖感もありました」
その折、橘さんは「太国」のメンバーと再会、「町民を少しでも元気にするために、焼きそばで頑張ろう」と誓い合ったという。
※女性セブン2011年12月8日号