11月21日に喉頭がんのため亡くなった立川談志さん(享年75)。風雲児と呼ばれた彼の生き様は、時に荒々しく、でも優しく愛すべきものだった。
談志さんが、落語の世界に足を踏み入れたのは16才のこと。高校をわずか1年で中退し、新宿・末廣亭の支配人だった芸能評論家の真山恵介氏の世話で5代目・柳家小さんに入門した。
「見習い」「前座」「二つ目」「真打」と階級がもうけられている落語の世界。小さんと初対面したとき、名跡の「小三治をくれ」と平然といったという談志さん。入門するやすぐに頭角を現し、前座となった初の高座から好評を博した。
しかし同時に談志さんの素行の悪さが問題となりはじめる。若手を集め、覚えやすいようにと、噺を区切って教える7代目・林家正蔵に対して、「師匠、しみったれないで、一気に教えてくださいよ」と平気な顔で注文をつけた。
宴席に30分も遅刻し、当時の落語協会会長の8代目・桂文楽に「いまの若い者はなっちゃいねぇ」と怒鳴られても、しょげずに最後まで残って平然と酒を飲み、料理を食べた。
代役で特別出演を頼んだ大先輩の2代目・桂小金治(85)には、「落語を忘れた兄さんを救うために、あたしの親切心から、会に呼んだのだ」と啖呵を切る。
当然、師匠である柳家小さんとも幾度となくトラブルを起こし、破門された回数は80回を超えた。それでも談志さんは小さんに怒られる度に、「あたしも師匠の年になればわかりますよ」と返した。
1954年3月に二つ目まで昇格したものの、芸の力があるが他に問題があるという声もあがって、真打となるまで通常の倍近くの10年もかかった。さらには、5年も入門が遅い3代目・古今亭志ん朝に真打昇進で先を越されるという屈辱も味わっていたのだ。
※女性セブン2011年12月15日号