見事日本シリーズを制した福岡ソフトバンクホークス。優勝の陰の立て役者は王貞治球団会長かもしれない。王氏は自分の存在が邪魔になってはと常に秋山監督を立て続けてきた。それには、これまでの王氏の歩みが背景にある。
巨人の監督時代の王氏の頭にあったのは「V9時代を作った川上野球」だった。王氏にとって、巨人以外の野球を考えられなかったのは事実である。福岡の人間にとってみれば、そんな「巨人の王」が福岡に来るとは予想もできなかった。
その背景に長嶋茂雄氏への、“反発心”があったことはあまり知られていない。
「結局、巨人には長嶋さんさえいればいいんですよ」――王氏はダイエーホークス監督に就任した際、こう語っている。
対外的には「ボクは巨人の次男坊」と自任しているが、“長男”長嶋には強烈なライバル心がある。ダイエーの監督として福岡へ居を移したのは、長嶋の巨人監督復帰(1993年)のすぐ後だったが、それは“巨人は長嶋監督の永久政権になるだろう。自分が戻ることはない”と退路を断っての決断だったという。
福岡へ行ってからは平坦な道ではなかった。就任当初は負けが込み、ファンから罵倒される日々。有名な生卵事件(※)の後には、帽子のひさしに「我慢」と書いてジッと耐えた。だがこうした経験、そして何より「巨人という呪縛」から解き放たれたことが、王氏のその後の人生を変えたといわれる。
地元密着の球団を目指し、福岡やキャンプ地・宮崎を中心とした九州のファンと触れ合う機会を大切にした。暖簾をヒョイとくぐって居酒屋に入る。ファンからサインを求められれば、嫌な顔ひとつ見せず、ペンを走らせた。
巨人時代には常に「巨人の王」「世界の王」「国民栄誉賞の王」という優等生イメージがついて回っていた。それが福岡に来たことで、“素”の王氏が広く知られるようになった。贈り物をされたら必ず自分で電話をして御礼をするという、律儀な性格も同様だった。
かたや「球界の盟主」を自任する巨人の象徴であり続けた長嶋氏、かたや「田舎球団」と呼ばれたホークスで苦労を重ねた王氏。
時代は巡り、「清武の乱」で両者の明暗が分かれた。
渡辺恒雄会長と清武英利氏のどちらの主張に正当性があるかはともかく、日本シリーズの最中にお家騒動を起こしたことに野球ファンは怒りを覚え、ファン無視の「巨人至上主義」の驕りを垣間見た。そして巨人ファンをも落胆させたのが、球団を通して発表された長嶋氏のコメントだった。
「清武氏の言動はあまりにもひどい。戦前戦後を通じて巨人軍の歴史でこのようなことはなかった。解任は妥当だと思います」
これが自らの意思だったのかどうかは確かめようがない。だが、いまだ長嶋氏の言葉さえ出せば何でも通るという傲慢さがあるとはいえまいか。
一方、王氏は古巣の騒動に対して沈黙を保っている。影響力の大きい自分が発言すれば混乱や対立を助長するばかり、という思いがあるからだろう。16年前の訣別がなかったら、王氏もファンが嫌悪する醜い権力闘争に巻き込まれていたことは想像に難くない。
※1996年5月9日、日本生命球場での近鉄戦後に起きた事件。ダイエーはこの時点で開幕から9勝21敗と低迷しており、試合中から「やる気がないなら辞めちまえ」という野次が飛んでいた。この試合も敗戦したことでファンの怒りは頂点に達し、暴徒化したファンが試合後にチームバスを包囲して「王、辞めろ!」と叫びながら生卵をフロントガラスに投げつけた。
※週刊ポスト2011年12月9日号