11月21日に喉頭がんのため亡くなった立川談志さん(享年75)。破天荒で毒舌を吐きまくった印象が強いが、その素顔は人情味にあふれる、優しき男。75年のその人生は、笑いあり涙あり、人を引きつけてやまないあの高座そのものだった。
談志さんは1983年に落語協会真打昇進試験を巡って、落語協会の会長を務める師匠の柳家小さんと対立した。
「昇進試験が厳しすぎるといわれたら、全員合格にする。全員合格に批判が出たら、また突然厳しくする。当時の昇進試験はあまりに場当たり的でした。談志さんはもともと若手は早く真打にして活動させたほうがいいという立場。そんなある日、談志さんが仕事で昇進試験の審査員を欠席していたときに自分の弟子2人が落とされて、“我慢できねぇ”ってなったんです」(落語関係者)
弟子には厳しくも、優しかったという談志さんは、一門16人を引き連れて落語協会を脱退。古典落語に噺家の個性を盛り込み、世相や流行も反映する独自の立川流落語を創設した。当時世の中は、空前のお笑いブーム。島田紳助(55)や明石家さんま(56)らを頂点に、ダウンタウンら若手も次々に育っていた。
「談志さんには、古典落語のままでは漫才には勝てないという思いがありました。これまで大事にしてきた古典落語を残すために、新しいものを取り入れようと勉強に励んだんです」(前出・落語関係者)
前落語協会会長の5代目・鈴々舎馬風は、談志さんをこう評したことがあった。
「天才が勉強するんだからかなわない」
談志さんの時代を見る目は鋭くなり、辛らつな言葉で幾度も時流を切り取って見せた。時には電車内でメイクをする女性たちを批判し、2006年8月に判定勝ちした亀田興毅(25)に八百長といい放つ…。
2007年、盟友の石原慎太郎都知事(79)についてコメントを求められたときには、こういい放った。
「彼は都知事以外にポジションがないんだろ。プライドを満たすところ、居場所なんだな。小説は大したことないし、総理にはなれないし。なんにもやるな、っていってるんだよ」
いくら盟友とはいえ、あまりに辛らつな言葉。それが、「あれは彼特有の愛情表現なんですよ。石原さんも、それが努力に裏打ちされた知識ゆえの発言と理解しているから、怒るどころか、はいはいって許してしまうんですよ」(前出・落語関係者)
※女性セブン2011年12月15日号