今年12月8日、日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開始してから70年目を迎えた。真珠湾攻撃は突然始まったわけではない。現地でも密かに準備が進められていたのだ。
1941年3月、ホノルルの総領事館に、ある外務省職員が一等書記生として着任した。森村正、28歳である。
彼は毎日のように下町に出かけて酒を飲み、現地の女性とドライブやピクニックに出かけるなど、派手な生活を送っていた。しかし派手な生活は、ある目的のために行なわれていた。森村の本名は吉川猛夫といい、正式な肩書は海軍予備役少尉。山本五十六が真珠湾攻撃のために潜入させたスパイだったのである。
吉川は、真珠湾に在泊している船の種類や数、停泊地やその動きなどを逐一報告するように指示されていた。下町で酒を飲むのは水兵から情報を得るためであり、女性とドライブやピクニックに出かけるのは真珠湾周辺の状況を自分の目で確かめるためだったのだ。
そして毎日のように真珠湾を観察するうち、毎週日曜日に最も多くの艦艇が在泊していることや(真珠湾攻撃は現地時間で12月7日の日曜日に行なわれた)、空母は1週間ぐらい演習で港を留守にするとか、南方水域で演習が行なわれているらしいことなど(日本の攻撃部隊は太平洋の北方水域を航行していた)、米艦隊の”習性〟がおぼろげに判ってきた。
ある日、吉川は真珠湾を見張るためにうってつけの場所を見つけた。アレワ高地にある日本料亭「春潮楼」である。2階座敷から東南方向に真珠湾と隣接するヒッカム飛行場を望むことができ、客が景色を楽しむための観光用の望遠鏡も備えられていた。
料亭には和服を来た数人の日系人芸者がいた。芸者の一人は新橋に留学したことがあると言い、小唄の一つも弾けた。2世の彼女たちは酒が回ると「帯が苦しいわ」「私も」などと言い、脱ぐと下にムームーを着ていた。
吉川は春潮楼に入りびたり、彼女たちと馬鹿騒ぎをした後、深夜から明け方までまんじりともせず、真珠湾の様子をうかがうことしばしばだった。
※SAPIO2011年12月28日号