プロゴルファーが優勝のかかる大事な場面でわずか50センチのパットを外してしまう――。
スポーツ界では、練習ではできているごく易しいプレーが極度の緊張でできなくなることをイップスと呼ぶ。語源は「子犬が吠える」という意味の「yip」。1920~30年代に活躍した伝説のプロゴルファー、トミー・アーマーが用いた表現で不安定な精神状態から体が硬直し、手が震えることなどをさしてきた。
だが、近年この言葉が広まったせいか、パフォーマンス低落は、何でもイップスの一言で片づけられるようになってきた。イップスとはアスリート最大の病なのか。今年、イップスに苦しむアスリートの心のケアを行っているイップス研究所所長・河野昭典の元に、ソフトバンクの松中信彦が通い始めた。
松中は2004年に三冠王に輝いたほどの打者である。彼でさえイップスに苦しんでいるというのだ。松中は昨年までクライマックスシリーズのチャンスの場面で結果を残せず、6年連続でCSに出場しながら一度も日本シリーズに進出していないソフトバンクの戦犯とされた。河野を前に、松中は開口一番、「とにかくチャンスで打てるようになりたい」と訴えたという。
「私は彼のバッティングを一目見て、イップスの原因が目の使い方にあるとわかりました。左打者は通常、右目でボールをとらえるべきなんですが、彼は利き目が左目だから、どうしても左目でボールを見ようとする。すると自然と体が開いてしまって、右方向にしか打球が飛ばなくなる。彼には『左目ばかりを使わず、右目でボールを見るような感覚で打ってみては』と提案しました。すると松中選手は左方向にも打球が打てるようになったんです。
イップスになる選手というのは、ピッチングであれ、バッティングであれ、理に適っていない体の使い方をしているケースがほとんどです。つまり、体を正しく使えていたら、イップスにはならないのです」
今年のCSファイナルステージ第2戦8回裏。満塁の場面に代打で登場した松中は、西武の守護神・牧田和久の初球をライトスタンドにたたき込んだ。
「とにかくいろいろ言われてきたので、見返してやろうと思っていた」
それはチャンスで打てないという、勝負師として最も屈辱的なイップスを克服した瞬間でもあった。
文/柳川悠二(ノンフィクション・ライター)
※週刊ポスト2011年12月23日号