【書評】『琥珀の眼の兎』(エドマンド・ドゥ・ヴァール著/佐々田雅子訳/早川書房/2415円)
【評者】岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
きっかけは二十年ほど前、日本の陶芸を学ぶために、著者が来日したことだった。終戦直後からずっと東京に住む大叔父は、このとき、あるコレクションを見せてくれた。二百六十四点の「根付」である。根付とは、きんちゃく袋の小さな留め具として江戸時代に流行したが、古美術界では根強いファンを持つ彫刻品でもある。お面をつけて遊ぶ子どもたち、鼠、花梨、裸女と蛸、性交する男女――。
大叔父は、ウィーンとパリを拠点に栄華を誇ったユダヤ人銀行家、エフルッシ一族の継嗣であった。しかしその経歴とは不釣り合いなことに、東京のささやかなマンションで生涯を閉じた。
著者は、この小さな美術品たちを相続した。そして戸惑う。いったいこれらはどうやって、日本から遠いヨーロッパへとたどりつき、時を経て、またふたたび日本へと戻ってきたのだろうか。根付たちが放浪してきた旅は、同じく、放浪の歴史をもつ一族につながる旅でもある、と。
十九世紀末、ペリーの開国によって海の外へと持ち出された日本の美術品は、西欧の芸術家と、そして彼らのパトロンである大富豪たちに「新しい風合い、新しい物の感じかた」を与え、熱狂させた。ジャポニズムである。
エフルッシ家の子どもたちは、東洋からやってきたこの小さな美術品を「ながめ、いじり、さする」玩具として、繁栄の時代を、肌の記憶にしみ込ませていった。
だが一族が、ロシアの穀物商からヨーロッパ中枢の大富豪へといっきに駆けのぼった時代は、同時に、彼らユダヤ人を「成り上がり者」として排斥する気運を育てた時代でもあった。
ナチス・ヒトラーの狂気を、なぜあの時代は受け入れたのか。一族の隆盛と没落の物語が、その理由を克明に再現するのである。
やがて手元に残されたのは、確かな感触をもって握りしめることのできる根付だけだった。それは、一族の平和だった時代が「よみがえる物語であり、手放すわけにはいかない未来」でもあったのだ。
※週刊ポスト2011年12月23日号