愛知県名古屋市内の静かな住宅街にある3階建て一軒家に住む家族は、誰もが知る、その街の誇りだった。美男美女のパパ、ママ。控えめで落ち着いた美人のお姉ちゃんに、いつもニコニコ笑顔の絶えない妹。3匹の愛犬も交じってにぎやかで楽しい一家だった。
しかし、12月11日の夜、家の中からはむせび泣く声さえ聞こえてこず、ひっそりと静まり返ったままだった。家では浅田真央(21)の母・匡子さん(享年48)の通夜が執り行われていたのだった。
9日早朝、肝硬変のために名古屋市内の病院で亡くなった匡子さん。実は20年にもわたる闘病生活だった。投薬治療でごまかしながら、真央を一人前の選手にするためにと常に一緒にフィギュアスケートの道を歩んできた。しかし2011年になって体調が悪化。生体肝移植の手術を受けるも快復せず、夏ごろから入退院生活を繰り返した。
「この半年、容態が良くない時が時々あり、名古屋を離れる時は、いつもこれが最後かも、と思いながら出発していました」
そう語る真央の予感は的中してしまった。危篤の知らせを受けたのは、GPファイナルの行われるカナダのケベックだった。出場をとりやめ、9日午後には緊急帰国したものの、母の最期には間に合わなかった。
11日、朝から葬具や棺が慌ただしく自宅に運び込まれていた。父・敏治さん(53)は近所に「親族葬でやりますので」と挨拶に回った。生前、匡子さんと親しかった弔問客も何人か訪れたが、「親族葬なので」と丁寧に断って、自宅に招き入れることはなかったという。
戒名は「釋尼慈匡(しやくにじきよう)」。「愛情を持って大切にする」という意味の「慈」が当てられた。その字はそのまま匡子さんと真央の関係を象徴していた――
2006年のトリノ五輪出場も期待された真央だったが、「開催前年の6月30日までに15才であること」という規定にわずか87日足りず、出場は叶わなかった。このとき匡子さんは「年齢制限は仕方がない」とコメントしていたが、親しい人には「4年は長いから出たかった…」とこぼしていたという。実はこのころからすでに、匡子さんの肝臓は着実に病魔に蝕まれていた。
「匡子さんはちょうどいまの真央ちゃんのように、昔は肌の色が白く透きとおるようだったんです。でも7年くらい前からでしょうか。顔がどんどん茶色くくすんでいったんです」(スケート関係者)
体の異変や不調をひしひしと感じながらも、匡子さんは娘たちから片時も離れなかった。リンクで練習するのを毎日毎日、何時間も見守った。
「寒くないですか?」「大丈夫ですか?」――そんな声を取材陣がかけるとにっこり笑って、逆に取材陣の心配をし、最後には必ず、「真央を応援してあげてください」というような母だった。
※女性セブン2012年1月1日号