12月9日早朝、肝硬変のために名古屋市内の病院で亡くなった浅田真央(21)の母・匡子さん(享年48)。実は20年にもわたる闘病生活だった。
2011年にはいって匡子さんにはあまりにつらい宣告がなされた。医師から「肝臓移植をしなければ、次のオリンピックまで生きていられないかもしれない」といわれたのだ。
あまりのショックから激やせした真央。2011年4月の世界選手権には、キム・ヨナも出場。バンクーバー五輪以来の直接対決と話題を呼んだが、結果は安藤美姫(23)が金メダルでキム・ヨナが銀メダルなのに対して、真央は6位と惨敗。「原因はやせすぎたこと」「体調管理がなっていない」などとバッシングも受けた。しかしひと言もいい訳することなく、母の病について決して明かすことはなかった。
その後、匡子さんは肝臓移植を受けているが…。
「(姉の)舞ちゃんや真央ちゃんの肝臓ならベストだったのでしょうが、匡子さんが“大事な娘の体にメスは入れられない”と強く拒否したんです」(浅田家を知る人)
そんな匡子さんのために、一家全員で、病と闘った。真央が練習場近くに借りていたマンションには母に代わって父が一緒に暮らすようになった。芸能事務所を辞めた舞も真央のサポートに尽力した。リンクにいる真央を心から愛した母のために、まず最優先すべきことは、真央がフィギュアスケートに打ち込める環境を作ることだった。
そして病院では、つききりの看病もある。真央もできる限り母のそばにいたいと思っていたが、匡子さんが許さなかった。「真央にはスケートがあるでしょ!」といって。
父と姉の負担を減らすためにも、練習以外では、なんでもひとりでできるようにならなければならなかった。練習の合間に自動車教習所に通って、免許を取得。これまで母が送り迎えしてくれていたが、移動は全部自分で運転して行くようになった。
父と姉が、病院に行っていて、マンションにいないときも増えたのだろう。練習帰りにコンビニ弁当を買って帰る真央の姿も頻繁に目撃されるようになった。
そしてちょうどそのころ、真央は「ひとりでお寿司屋さんに行ったんです」と明かしたり、「初めて新幹線にひとりで乗ったんです」などと、「ひとりで」を強調するようになった。
「匡子さんに心配かけたくなかったんでしょう。“私は大丈夫。もうしっかり自立できている”という、精いっぱいの意思表示だったんだと思います」(前出・浅田家を知る人)
※女性セブン2012年1月1日号