福岡ソフトバンクホークスと中日ドラゴンズとの間で争われた今年の日本シリーズにおいて、両軍の明暗を分けた一つのプレーがあった。中日の2勝1敗で迎えた第4戦の1回表、ソフトバンクが1点を先制し、さらに1死一、二塁という追加点のチャンス――。
5番打者の松田宣浩の打球がセカンドに弾んだ。中日の井端弘和が冷静に捌いて遊撃手の荒木雅博に送球し、すぐさま荒木が一塁に転送する。しかし、ダブルプレーを狙った荒木の送球はワンバウンドの悪送球となり、一塁を守るブランコが後逸する間に二塁走者が生還してしまう。
シリーズを通して貧打に苦しんでいた中日が、守備で乱れてしまえば自然と勝機は逃げていく。この失点が決勝点となり、勝敗をタイに戻したソフトバンクが、結局、2003年以来、8年ぶりにシリーズを制した。
荒木は球界を代表する内野手だろう。しかし、遊撃手に転向した2010年以降エラーが増え、今季はセ・リーグワースト3位の17失策を記録した。守備の名手がなぜここまでエラーが増えてしまったのか。荒木を苦しめているのは送球時におけるイップスであると言われている。イップスとは、スポーツ選手に多く見られる、いわば心の病である。
イップスに苦しむアスリートの心のケアを行っているのがイップス研究所所長の河野昭典だ。彼の元には多くのプロ野球選手がお忍びで通い、克服に向けて技術指導を受けている。河野が明かす。
「極度の緊張状態の中で、突如として筋肉の硬化が起こるのがイップスです。プレー中に、あらゆる重圧から、心の中で葛藤が起きて、自らの意に反して体が動かなくなってしまうのです」
イップス研究所には、フォアハンドが打てなくなったテニス選手や、背負い投げができなくなった柔道家、面を打てなくなった剣道家なども訪れるという。
「イップスというのは、プロ・アマを問わず、スポーツ選手なら誰もが陥る危険性があります」
また脳外科の権威で、イップスと脳に関する著書もある聖トマス大学教授・大井静雄は「日常でもイップスは起こり得る」と話す。
「自宅に帰って来て扉を開けた瞬間、目の前に泥棒がいたとします。まずは危険を回避し、そして警察に110番通報しようと考えるはずです。すぐに行動に移せれば問題はありませんが、体がフリーズしてしまって動けなくなることがある。これはスポーツの世界でいうイップスと同じ現象です。イップスを引き起こす最大の要因は、恐怖心。恐怖心が神経回路を寸断するからこそ、体が動かなくなってしまうのです」
文/柳川悠二(ノンフィクション・ライター)
※週刊ポスト2011年12月23日号