政治家の言葉が軽くなったと言われて久しいが、今年も民主党政権から失言、妄言、暴言が繰り返された。その筆頭はわれらが「どじょう宰相」、野田佳彦・首相だ。
もっとも、官僚答弁に終始する野田氏の“受賞作”というと、どれもインパクトには欠ける。
財務官僚に指示された消費増税にこだわり続け、「捨て石になってケリをつける」(12月3日の会合)と力んで見せたのも笑えたし、番記者キャップたちとのオフレコ懇談で、つい気が緩んで、「横田めぐみさん生存情報はガセでしょう」と軽口を叩いた件など、為政者としての自覚欠如は明らか。
だが、例えば池田勇人の「貧乏人は麦を食え」とか、中曽根康弘の「日本は不沈空母」、小泉純一郎の「人生いろいろ」といった歴史に残る“名失言”には遠く及ばない。それもこの人の「どじょう」ぶりか。
政治家の言葉を研究する社会言語学者の東照二・立命館大学教授の分析。
「所信表明以後、野田さんは明らかに官僚の作文を読むだけで、印象に残る言葉は少ないですね。『正心誠意』も、四字熟語を使うと知的な匂いを感じさせるという狙いでしょうが、そこに情熱はない。前後の文脈からも浮いていて、中身のない演説でした」
そうなのだ。この言葉の軽さこそが、国民が最も不満と不信を募らせる原因なのだ。国民との約束より国会乗り切りや身内である官僚の利益を優先し、その国会よりも“国際公約”が先んじる。大袈裟でなく、民主主義を蝕む「どじょう汚染」が日々、進んでいる。
長く国会職員としてキャリアを積み、参議院議員を2期務めた平野貞夫・東日本国際大学客員教授の嘆きは正鵠を射ている。
「僕は、明治23年に第一回帝国議会が開かれて始まった日本の議会政治は、昨年、菅政権が誕生した時点で120年の歴史に幕を下ろしたと思っています。相手の話を聞かずに自分の意見をいうだけの今の国会は、もはや言論の府ではない。
現政権の幹部には弁護士出身者が多い。裁判の場では、弁護士はそれぞれ依頼人の立場から主張し合い、どちらが正しいかは裁判官が決める。が、議会での論争は全く違う。裁判官はいないのだから、異なる依頼者を持つ議員同士が、議論を戦わせながらも政策をまとめ上げる力が必要です。
それができる政治家とは、国家学や統治学に見識を持つことはもちろん、感情や深層心理で語り、国民を説得する言葉を持つ人だ。今の政権にそういう政治家は何人いるのでしょうか」
※週刊ポスト2011年12月23日号