3月11日に発生した東日本大震災から9か月、被災者たちの心の傷はそう簡単に癒えるものではない――
4畳半の和室1部屋に3畳のキッチンとバス、トイレ。それが金野セツ子さん(72)が暮らす陸前高田市の仮設住宅だ。一人世帯は皆この間取り。和室にはベッドと机と「毎日話しかけている」仏壇だけ。座るスペースがないのでベッドをいす代わりにして生活している。
避難所や親類宅を経て、この仮設に来てからの半年間。セツ子さんはほとんど外出することはなかった。生鮮食品やお弁当などの買い物は仮設に来る軽トラックの移動販売で済ませ、一日の大半を支給されたテレビを見たりしながら、何をするでもなく過ごす。
「外に出ることができなかったのです。だって、42年間も一緒にいて、ふたりで一生懸命薬局を経営して…。その主人が何の前触れもなくいなくなったんです。どうやって生きていけばいいかわからないから、人にも会いたくありませんでした」
セツ子さんの夫・亨さん(享年75)は明治29年から続く薬局の3代目。2人の息子も巣立ち、従業員と一緒に薬局を切り盛りしてきた。「特別なことはないけど、ごく平凡に幸せ」な日常は、あの日、守ってきた店舗兼住宅と一緒に跡形もなく流されてしまった。それは地震発生から30分ほど後の、午後3時15分ごろ。
「ものすごい揺れの後、お父さんは店の片づけを始めました。すると近所の人が『3mの津波が来た』というので逃げようとしたら、もう玄関まで水が来ていて。2階に上がろうとした瞬間、バーンッ!と屋根が津波で飛ばされ、畳が舞いました。実際には10mを超える津波だったようです。私は屋根の太い梁につかまりながら流されました。そのとき、水の中からお父さんの指が見えたんです。必死に何かにつかまろうとしている指が! でも私の手は届かず『お父さん!』と叫びました」
しかし次の瞬間、夫は激流にさらわれ、そこにいなかった。流されたセツ子さんは、水が引くときに瓦礫に引っかかり、助かったようだ。誰かに「大丈夫か? 頑張れ」と声を掛けられたと同時に意識を失い、気がついたのは3日後、病院のベッドの上だった。そこから、「早くお父さんのところに行きたい」と思い続ける日々が始まった。
「あのときの光景がよみがえり、どうしてお父さんの手をつかめなかったのかと、後悔し続けました」
人には平気な顔を見せながら、ひとり、仮設住宅の部屋に戻ると涙が出る。いまも1日2回は涙を流し、週に2回は大きく泣く。それでも最近は、少し気持ちの変化も出てきたという。
「毎日のように誰かが訪ねてくれたり、知り合いを捜してきてくれたり。そういうことで、徐々に気持ちがほぐれて。“苦しいのは私だけじゃない”、そんな当たり前のことが少しずつわかってきました。実は今日、震災後初めて、仮設から本格的に外出したんです。乗り越えたとはいえないけど、外に出るようにしようと思うようになりました。何もかも忘れて笑ったのは、今日が初めてだったかもしれません」
※女性セブン2012年1月5・12日号