2011年3月11日の東日本大震災発生後、皇太子ご夫妻も両陛下に続いて避難所や被災地を慰問されたが、その回数はご高齢の両陛下よりも少なかった。しかも、8月の岩手県への慰問以後、雅子さまが果たされたご公務はわずか数回で、外出を伴うご公務は皆無という状況だ。
この間、美智子さまはご体調を崩され、頸椎症性神経根症による肩、腕の痛みを患われ、さらに、右足は下腿筋膜炎を発症された。だが、その苦境の中で美智子さまは、ご体調が許す限り、陛下とともに被災地への慰問を続けられながら、通常のご公務にも励まれた。
そんな中、雅子さまの愛子さまを思う母心が大きな非難を呼ぶ事件が起こってしまう。2011年9月、愛子さまの山中湖への2泊3日の校外学習に、雅子さまが同行されたのがきっかけだった。
「初等科の保護者からの批判の声はもちろんですが、皇室内部でも“公務だと体調不良で地方へ行けないのに、愛子さまの同行とはいえ私的な旅行だと行けるなんて…”という声が聞こえてきました。これでは、雅子さまが公務を二の次に考えられているように思われてしまいますからね」(宮内庁関係者)
雅子さまへの逆風が吹き荒れる中、11月初め、愛子さまがマイコプラズマ肺炎で東大病院に入院。このときも雅子さまは付きっきりで看病された。献身的な雅子さまの看病もあって愛子さまは元気を取り戻され、退院なさったが、入れ替わるように、今度は陛下が入院された。だが陛下の退院までの約3週間、お見舞いに駆けつけられる雅子さまの姿は、とうとう見られなかった。
「陛下が入院中は、皇太子さまが、国事行為代行やご名代を務められましたが、結局、雅子さまがサポートなさることは、ついにありませんでした」(宮内庁関係者)
これには、秋篠宮ご夫妻に期待するしかないという声が上がり、皇太子ご夫妻の離婚説が浮上するなどして、大きな波紋を呼ぶこととなった。
そして2011年12月に発表された東宮職医師団の見解は、医学的見地からの言及は一切なく、雅子さまのご病状が快復されないのは、“週刊誌報道のせいだ”と責め立てる異例ともいえる内容だった。皇室ジャーナリストの神田秀一氏はこう説明する。
「今回の見解は、医師団が発表すべき内容ではなく、不充分です。もしも本当に報道によって雅子さまのご病気が悪化されたのであれば、医学的な見地から、どの報道が、どんな風にお体に影響を与えて、快復に向けて、どんな妨げがあるのかを具体的に明示すべきです。医師団の見解としては、あまりに抽象的すぎます。さらに一度は、“よくなった”と発表した医師団が責任を転嫁するような見解には、疑問を感じずにはいられません」
確かに、一度は全快寸前までいきながら、愛子さまのいじめ問題を機に、公務に対して後ろ向きになられてしまった感のある雅子さまだが…。12月16日、小町恭士東宮大夫は定例会見で、愛子さまの登校状態について、「かなり普通の状態に向かっている」と語った。もう雅子さまの同伴登校は必要ないとの見解といえる。愛子さまの登校問題は解決の方向に進んでいると考えられるわけで、雅子さまにとっては、大きな心配事が消えたことになる。
これまでも幾度も問題に直面されながらも、皇太子妃としての復帰を少しずつではあっても模索し実践されてきた雅子さま。もがき苦しまれた8年ではあったが、決して前を向くことを拒んでいらっしゃったわけではない。
※女性セブン2012年1月5・12日号