3月11日の東日本大震災から9か月。宮城県・石巻での取材を著書『ふたたび、ここから~東日本大震災・石巻の人たちの50日間~』(ポプラ社)にまとめたジャーナリスト、池上正樹氏が、「大丈夫」という言葉の下に悲しみを隠す東北の被災者たちについて次のようにレポートする。
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宮城県石巻市に初めてはいったのは、大震災から12日後の3月23日。瓦礫の街は、手つかずのまま冠水し、何も音がしない。そこには、生の営みを感じない「悲しみの大地」が、果てしなく広がっていた。以来、17回にわたって石巻市など被災地を訪ねてきた。しかし、震災から9か月以上経ったいまも、石巻市内には、市の約123年分のゴミの量にあたる瓦礫が残されたまま。その処理には、多額の経費と歳月と周辺の理解が必要だ。
被災地の現実を象徴するような、ある家族の話を紹介したい。市内に住む60代のA子さんの家は、江戸時代中期から続く名家。石巻は米の集積地として発展した歴史ある街だ。しかし、3月11日、代々続く家は津波で跡形もなく流され、夫と娘の夫は行方不明になった(後に遺体で発見)。
地震時、A子さんはたまたま仙台市にいて、すぐに家の夫と電話がつながった。小学校に行っている孫のことが心配で、「迎えに行って」と頼んだ。夫は孫が帰っても危なくないように、ひっくり返ったピアノなどを片づけ始めた。その夫は4月7日の余震後、上流の川底から浮き上がって見つかった。
A子さんの娘の夫も津波にのみ込まれた。彼が教師として勤務していたのは、数多くの犠牲者を出した、石巻市立大川小学校。近くの安置所に毎日、何百もの遺体が運ばれていた。「半分、顔がなかった人、目も口も開いたままの人、孫と同い年の子もいた。その子なんか、お人形さんみたいにかわいかったのよ。一緒にいたママもまだ見つからないの…」(A子さん)
震災から9日目、義理の息子の遺体が、ポシェットの中のカードから判明した。耳から血が出ていた。「でも、大川小学校の先生がたは、いくら頑張ったって、良くなんかいわれないしね…」(A子さん)
地震発生時、2年生の担任教諭は、とっさに2人の児童を抱え、裏山をよじ登った。危機の迫る現場で、児童を守るために取り得る限りの努力をしない先生などいない。しかし、2人の命を救いながら「先生だけが逃げた」と批判されている。
※女性セブン2012年1月5・12日号