今年で62回目を迎える『NHK紅白歌合戦』(2011年12月31日午後7時15分~)。東日本大震災のあった2011年は、紅白も特別なものになりそうだ。
そんな紅白が、「国民的行事」としての地位が大きく揺らぎ始めたのは、1980年代半ばだった。
1984年に78.1%だった視聴率は1985年に70%を切り(66.0%)1986年には59.4%と60%をも割りこんだ。『怪物番組 紅白歌合戦の真実』の著者で、作家や音楽プロデューサーとして活動する合田道人さんがいう。
「お茶の間で、世代を超えてみんなが知っているようなヒット曲がなくなってきたのがこのころでした」
音楽のジャンルが広がり、歌手たちが紅白を最優先しない雰囲気も生まれた。若手を中心に出場辞退者が増え、「1年の総決算」というには大ヒット曲が聴けなかったり、英語まじりの若者の歌詞にお年寄りがついていけないなど、世代間のギャップも浮き彫りになった。 同時にバブル時代が到来、好景気と円高で年末年始を外国旅行などで過ごす人が急増し、大晦日を家族が自宅で一緒に過ごすというスタイルが大きく変わってきてもいた。
当時、NHK内部では紅白の“打ち切り”が真剣に検討された。
「昭和から平成の世に変わった1989年。NHKの新しい会長になった島桂次氏は、9月13日の定例会見で『紅白歌合戦は今年で最後にしたいんだよ』といい放ちました」(合田さん)
しかし、「打ち切り」を示唆する幹部の発言に全国から抗議が殺到。辛くも生き残った紅白は、平成初となる1989年、2部構成でスタートすることになった。しかし、午後7時20分から8時55分までの第1部は『レコ大』とかぶるため、ヒット曲不足は否めない。新機軸を打ち出そうと、外国人歌手を多数招いたが、「いったいあれは誰?」という声が上がり、評判はさんざんだった。
視聴率が回復せず、焦りを隠せないNHKは「話題づくり」に奔走する。 1990年代の紅白で、多くの人が印象に残るエピソードとして挙げられるのは「小林幸子(58)vs美川憲一(65)」の衣装対決だろう。1993年には、小林が2億円かけたという高さ8m、幅14mの鳳凰姿で登場。美川も1990年代後半は空中浮遊やイリュージョンなどのパフォーマンスで対抗した。
1994年には日本テレビ『進め! 電波少年』の松本明子(45)が、『蛍の光』合唱中の会場に紛れ込み、「紅白もらった」の垂れ幕を掲げた。もちろん、事前に決まっていた演出だった。しかし、仕込まれた衣装対決やハプニングもどきの話題づくりに視聴者はますます離れていった。
そして1999年、アルバム800万枚を売り上げた宇多田ヒカル(28)が「冬は制作活動に専念したい」として出場辞退。これが若者の紅白離れの決定打となったのか、翌年以降、視聴率50%割れが当たり前のようになっていく。2003年、TBSが『K-1グランプリ』で曙vsボブサップを放送すると、瞬間的ではあるが、ついに視聴率で逆転を許してしまうのだった。
※女性セブン2012年1月5・12日号