父・金正日の死は、いまだ偶像化の途中であった金正恩にとって不測の事態であった。経済疲弊で苦しむ国民の尊敬を駆け足で獲得しなければならなくなったのだ。しかも2012年は、「強盛大国」として掲げる節目の年でもある。焦燥に駆られる三代目は、もはや「暴挙」に頼るしか自らの体制を支えられなくなっていると関西大学教授の李英和氏は指摘する。その「暴挙」とは2010年の北朝鮮による韓国・“延坪島砲撃事件”である
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延坪島砲撃事件から1年が過ぎた2011年の11月、北朝鮮は「延坪島の火の海が青瓦台(韓国大統領府)の火の海に」と脅迫する人民軍の声明を出した。その翌日には、金正日と金正恩の父子が連れだって、無差別砲撃を敢行した人民軍第4軍団を視察し、同作戦計画を主導した工作機関「偵察総局」を視察している。
この不穏な動きは、金正恩が韓国領の延坪島を台湾領の「金門島」に仕立てる誘惑に駆られている証拠かもしれない。
「金門島」は、1958年から1979年まで、中国と台湾が砲撃戦を繰り広げた局地的な戦争の舞台となった。同事件を指して「金門砲戦」あるいは「第2次台湾海峡危機」と呼ぶ。
先に砲門を開いたのは中国の人民解放軍。朝鮮戦争後の東西冷戦の開始を背景に、毛沢東が「中東人民の反侵略主義闘争支援」を開戦の口実に仕立て上げ、人民解放軍が先制攻撃を加えた。
この攻撃で台湾側に440名もの死傷者が出た。それ以来、ときに海戦を交えながら、中台両軍による砲撃合戦は21年間も続く。
もっとも、全島を覆う熾烈な砲撃戦は最初の2か月ほど。その後は、アメリカ軍から最新鋭砲を供与された台湾軍の猛烈な反撃を受け、中国軍はしだいに矛を収める。中国軍の砲撃は平日の週3日間だけ。それも無人の山間部に向けた定時砲撃へと儀式化した。
こうして全面戦争に発展することなく、1979年「米中国交樹立」で、中国軍による金門砲戦の政治芝居は幕を下ろすことになる。
金正恩はこの21世紀版「金門砲戦」の再演を狙う危険性が高い。
たしかに「金門砲戦」と「延坪島砲撃」とでは、事件の背景と動機が異なる。前者は、冷戦勃発を背景とした、中国の対外戦略を宣伝するための政治目的だった。後者は、金正恩の登場を背景に、北朝鮮軍の新人事をめぐる内輪もめで起きた「計算ずくの暴発」だった。
だが、両方とも全面戦争を意図したものでない点で共通する。動機も突き詰めれば「内政」に起因するものだ。
北朝鮮は「延坪島の火の海が青瓦台の火の海に」と言葉は勇ましい。だが、韓国大統領府を攻撃する勇気はない。本当に戦争を起こせば、世襲独裁体制は瞬時にして崩壊するからだ。
青瓦台には「口撃」だけである。しかし、延坪島には実際に砲撃が繰り返される恐れが強い。なぜなら、金正恩は前回の延坪島砲撃で「思わぬ拾い物」をしたからである。
同じ砲戦でも、「金門島」と「延坪島」とでは世論がまったく違った。台湾の世論は驚愕と激昂の果てに断固たる反撃を選んだ。他方、北朝鮮軍の不意打ちによる無差別砲撃にもかかわらず、韓国世論の半数近くが奇妙な反応を示した。厭戦気分なのか再発防止の観点なのか、反撃や報復よりもむしろ、韓国政府に対北融和姿勢への転換を求めた。北朝鮮にとって、まさに望外の好結果だった。
金正恩はこれに味をしめて「一石三鳥」を狙う危険性が一気に高まった。
1つめには、経済疲弊の責任を他国に転嫁しようとする目くらまし戦術だ。北朝鮮国民の不満が経済難で危険水位にまで高まれば、偵察総局と人民軍は延坪島砲撃事件の再演を決してためらわない。
2つめには、韓国の世論を圧迫して大規模な経済支援を再開させる脅迫戦術である。これでもしも韓国世論が前回と同様の反応を示せば、融和政策への転換を狙って軍事挑発を繰り返すことになる。
3つめは、韓国の総選挙と大統領選挙への介入戦術だ。2012年、韓国は熱い選挙の季節を迎える。国会議員選挙だけでなく、次期大統領を決める選挙戦が実質的に始まる。北朝鮮軍が延坪島に舞台を限定して砲撃戦を恒常化させれば、韓国内に戦争恐怖症と対北融和ムードを持続的に高められるという邪悪な計算が働く。
※SAPIO2012年1月11・18日号