1月12日に発売される『あんぽん 孫正義伝』(小学館刊)。著者の佐野眞一氏は、同書のなかで、孫正義氏の父・孫三憲氏の商才について、こう書いている。(文中敬称略)
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三憲は金貸し商売をやりながら、「これは長くやる商売ではない」というのが、いつもの口癖だった。「カネはあくまで商品。カネ貸しだからといって、下品にふるまってはいけない」というのも、三憲の口癖だった。
孫が十歳になった頃、三憲は金貸しからパチンコ屋に転身した。
三憲の金貸し時代のカバン持ちだった大竹仁鉄は、孫一族がパチンコ屋に相次いで転身した経緯について、こんな興味深いエピソードを教えてくれた。
「三憲さんのところは七人兄妹ですが、長男の三憲さんがリーダーシップをとっていました。でも、ほかの兄妹も焼酎の密造と養豚で結構なお金を貯めていて、いろいろな商売に手を出していた。
母の兄妹は、みんな個性が強いし、我も強かった。最初にパチンコ屋を始めたのは、うちの母(清子)と三憲さんの弟の在憲さんなんです。一九六九年くらいでした。それが結構繁盛したものだから、それから一年ほどしたら、今度、長女の(玉村)友子さんと三憲さんがパチンコ屋を出すことになった。それが、なんとうちの母たちが出していた店の隣ですよ(笑)。
隣が金儲けすると、日本人は足を引っぱるが、韓国人は歯がゆがる、という言葉があります。うちの一族はまさにそんな感じでしたね。結局、兄妹同士で隣に店を出してもしょうがないから、店をつなげて四人で共同経営しようということになった。ところが、月末になると必ず大ゲンカです。売り上げをどう配分するかで。
誰が一番よく働いたか、どんな景品を仕入れたとか、この仕事はうちがやったとか……。そこにばあさん(李元照)まで入ってくると、もうまったく収拾がつかなくなる(笑)」
一九八〇年代の初め、大当たりが出るフィーバー機の規制がまだ始まる前のパチンコブームのときには、孫一族七人兄妹のうち六人が持っていた佐賀と福岡のパチンコ屋だけで、五十六軒もあった。その当時、パチンコで大儲けした孫一族の一人が建てた御殿のような豪邸は、いまでも一族の語り草になっている。
その家には、だだっぴろい風呂場に水風呂やテレビ付きのサウナまであって、飼っていたピレネー犬の犬小屋にはクーラーまでついていた。
かといって、大竹が言ったように、そんなリッチな生活を彼らにもたらした一大パチンコ企業は、孫一族が一致団結して築いたわけではない。
こうした孫一族の奇妙な関係を冷静にウオッチしていた銀行の支店長は、「みなさんで一致団結すれば、すぐにでも日本一のパチンコチェーンになれるでしょうに」と、残念がったという。
『孫家の遺伝子』(孫泰蔵著)によれば、フィーバー機の規制が始まって孫一族のパチンコ屋に閑古鳥が鳴き始めたとき、三憲はこんな奇抜なアイディアを出してみんなを驚かせたという。
三憲はパチンコ屋の駐車場に釣り堀をつくり、「赤鯉を釣った人には一万円のボーナスを差し上げます」というチラシをまいた。すると釣り堀は大繁盛し、ボーナスをゲットした客はパチンコ屋に戻ってきた。パチンコで負けた客はまた釣り堀で儲けようとするから、両方とも繁盛した。
要するに三憲は、大量の黒鯉に数匹だけ混ぜて釣り堀に放流した「赤鯉」を、規制されたフィーバー機がわりにしたのである。
三憲が北九州の八幡に家を建てたとき、三憲はその豪邸で新築祝いの大盤振る舞いをし、両親を呼び寄せた。
(『あんぽん 孫正義伝』より抜粋)