いつまでたってもなくなることのない政治家や役人の失言。元セゾングループ代表(堤清二として)の詩人・作家の辻井喬氏(84)が、それら失言の裏に潜む大量消費文明の影響を「言わずに死ねるか!」と指摘する。
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言葉や言語は、その人の思考を規定するうえでとても重要なものです。古来、日本には美しい日本語があったはずなのに、最近はあまりにも無神経で心ない言葉の使い方をする人が多くなりました。特にひどいのが国を司る政治家や役人の言葉。
米軍普天間飛行場移設に関する問題では、沖縄防衛局の田中聡局長が、評価書の提出期限を巡って「(女性を)犯す前にこれから犯しますよというか」と答えて更迭されました。
また、東日本大震災後に石原都知事が「大震災は天罰」「津波で我欲を洗い落とせ」と発言して慌てて謝罪する一幕もありました。
いずれの発言も日頃の潜在的な精神構造が無意識に言葉となって出たもので、救いがたいと断じてしまえばそれまでですが、言葉は、単に文学や伝統という枠を超えて、社会を考えるうえでも馬鹿にならない問題なのです。
関東大震災後の国づくりで、時の大正天皇は「国民精神強化振興の詔書」を発布し、国民の軽佻浮薄を諫めました。田中氏や石原氏の発言を聞いていると、民は豊かになってはいけないという明治時代から続いた富国強兵時代のロジックと何ら変わらない。これはとんでもない誤りだと思うのです。
こうした発言が発せられてしまう風土がいまだに残っているのはなぜなのか。1945年の敗戦から1950年代の中頃まで、日本人は「ぜいたくは敵だ」という政治スローガンの下に、長らく消費鎖国に陥っていました。それが1960年代に入ると、「とにかく豊かになろう」と一大消費社会へと舵を切り、海外の有名ブランドや消費財の数々が日本へ流入するようになりました。
当時、私も西武百貨店の文化事業や海外進出の命を受け、アメリカやヨーロッパ諸国を視察し、それまで見たことも聴いたこともない現代絵画や音楽に触れ、自分自身も鎖国状態だったことを思い知らされました。
しかしその一方で、高度成長期を経て国民の生活がリッチになっても、精神的な豊かさは享受できていないのでは、という矛盾も常に感じていました。ハンドバッグはエルメス、財布はヴィトン……、と言いながら、すべてを貨幣価値に換算する習慣が、日本人の道徳的価値観さえも失わせているのではないかと。
確かにGDP至上主義を貫いた結果、日本はアメリカに次ぐ世界2位の経済大国までのし上がりましたが、経済的な豊かさと人間としての豊かさとは、関係こそあれ別のものだということに気付き始めていたのです。
流通業に長年たずさわった私がいうのもおかしな話ですが、大量消費文明への倦怠感が国全体に拡がっていたことは事実です。そして、国主導で産業を発達させ、アメリカ追従型のグローバリゼーションを推し進めた結果、日本人は独立した国家の国民であることを忘れ、自主的な判断力を失ったのだと思います。
市場経済原理で競争をすれば何でも質がよくなるという幻想は、人格形成をすべき教育現場にさえ暗い影を落としています。私は今まで6つの大学で非常勤講師として教壇に立った経験がありますが、偏差値の高い大学の学生ほど、真面目な反面、知識や情報はすべて受け取るのが専門で、自分の考えや意見を伝えるべき言葉を持っていません。
基礎的・理論的学問は受験で教えられても、夏目漱石の『こゝろ』や島崎藤村の『破戒』などの小説を読んでも入学試験の点数は増えないからと、優れた文学を感じ取る意欲もないのです。でも、いざ受験に出たら困るからと、あらすじだけは誰もが知っています。こんな“あらすじ人間”に独立国だという自負心が持てるわけがなく、その後の人生のあらすじまで見えてしまうのです。
●辻井喬:1927年東京生まれ。元セゾングループ代表(堤清二として)。主な著作に、詩集『異邦人』(室生犀星詩人賞)、小説『いつもと同じ春』(平林たい子文学賞)、『虹の岬』(谷崎潤一郎賞)、『父の肖像』(野間文芸賞)など。
※週刊ポスト2012年1月13・20日号