作家・菊池寛が私財を投じて創刊した月刊誌『文藝春秋』は、国民雑誌と称され、長く日本の「論壇」の中心を担ってきた。1991年から1994年までの3年間にわたって同誌の編集長を務めた白川浩司氏が、日本新党結成前の細川護煕氏についてレポートする。
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熊本県知事を辞めたばかりの細川護煕氏に会ったのは、『文藝春秋』に移った直後の平成三年六月三日だった。冷戦後の世界に対応するために、この国はどうすればいいのか。雑誌としてどういう企画を立てればいいのか。テーマが大きすぎて方向が見えないまま有識者を訪ね歩くうち、椎名素夫氏(自民党前衆議院議員)の事務所で紹介されたのである。その場には、日本国際交流センター理事長の山本正氏もおられた。
椎名氏はかねてからワシントンにも個人事務所を持ち、アーミテージ元国防次官補らアメリカ側からの信望も厚い、政界有数のインテリだった。自民党の椎名悦三郎元副総裁のご子息だが、いわゆる二世議員として後を継ぐことを潔しとせず、こんなエピソードを聞いたことがある。
京都だったか都内だったか、かねてから客として認められたいと思っている格式の高い店があった。そこは「一見さん」はもちろんお断り。父・悦三郎も使っているところで、父に頼めば出入り可能だったはずだがあえてそれをしなかったため、しばらくは階段下の物置のような小部屋に通された、という。
この平成三年、湾岸戦争でサダム・フセインのイラク軍がたちまちクウェートから放逐され、ソ連では共産党が解散、年末にはソ連邦自体が消滅してしまった。日本国内では衆目の見るところ、海部俊樹総理は経世会(竹下派)の操り人形にすぎず、相変わらず二重権力構造が続いていた。
真の実力者と見られていたのは、自民党の若き小沢一郎幹事長だった。一方でバブル期間中、大手証券会社による大口顧客への損失補てんや暴力団との不透明な取引が明るみに出て、日本型システムにヒビが入っていることが明らかになりつつあった。
細川氏は初対面の私に、「いずれ新党を作って自民党をぶっ潰し、総理としてこの国を改革したい」と、夢のようなことを言われた。くり返すが、自民党とくに経世会支配がまだまだ続くと思われていたこの時期に、である。
その時、私がまんざら荒唐無稽とも思わなかったのは、「五五年体制」という擬制も遠からず崩れるだろうと思っていたからだろう。政治家としての細川氏は、熊本県知事の前は参議院議員を二期務めたぐらい、田中角栄の秘蔵っ子という評判は聞いていたが、実力者というにはほど遠かった。だがこういう変革期にはむしろ、旧体制では無名だった人こそ何事かなし遂げるかもしれない。
※週刊ポスト2012年1月13・20日号