毎年お正月の恒例行事となった箱根駅伝。往路、復路合わせ14時間ものテレビ中継は例年平均視聴率27%をマークし、沿道では50万人が声援を送る。
歴史は古く、第1回大会は第二次大戦前の1920年にさかのぼる。以来、歴代の選手たちによって、いわば92年間にわたり脈々とたすきがつながれてきた。しかし、出場できるのは原則として関東地方の大学だけ。いわば“関東ローカル”の大会で、全国の大学が出場する10月の「出雲駅伝」、11月の「全日本大学駅伝」のほうが駅伝大会としては格上とされる。
それなのになぜ、箱根ばかりが注目されるのだろうか。『箱根駅伝』(幻冬舎新書)の著者でスポーツライターの生島淳さんは、コースの面白さが理由のひとつという。
「箱根の特徴は、18.5kmの4区をのぞくすべての区間が20km以上の長丁場であること。尋常ではない距離を走る分、ランナーひとりあたりの力量が問われ、ひとつのミスが大きく響きます」
箱根駅伝は東京・大手町をスタートして東海道をひた走り、小田原を通過して箱根の山へ。険しい山道を登りきり、芦ノ湖で往路のゴールを迎えた翌日、来た道を大手町に向かって戻っていく。往復217.9kmの道のりを、10人のランナーがたすきをつないで走る長い長いレースだ。
その最大の見せ場が5区の山登りにほかならない。前述の通り、距離約23km、標高差840mの5区は、箱根駅伝のなかで最も難しい区間なのだ。
早稲田大学の選手として1983年から4年間5区を走り、現在はNPOニッポンランナーズ理事長を務める金哲彦さんが解説する。
「あんな登り坂は普通の駅伝にはありえない。標高差800m以上の急勾配を全速力で登るので走っている最中、ずっと苦しい。まさにレースの“山場”となり、昔から『山を制するものは箱根を制する』といわれました」
だからこそ、さまざまな伝説が生まれた。5区専門だった金さんは早大3年生のときに、区間賞を獲得して「山登りの木下」と呼ばれた(金さんは在日韓国人で、当時は日本名の木下を名乗っていた)。
5区を強化して1990年に総合優勝を達成した大東文化大学は、「山の大東」と評された。やがて2005年、5区で順天堂大学2年生(当時)の今井正人選手が11人抜きを演じると、アナウンサーが「山の神が降臨しました」と実況。今井は以後、“山の神”と呼ばれるようになる。
そして「箱根駅伝史上、最大のスター」(前出・生島さん)とされるのが、“新・山の神”東洋大学4年生の柏原竜二選手だ。
1年生で5区に登場した2009 年、トップから約5分遅れてたすきを受けた柏原は、序盤から猛烈な勢いで箱根の山に挑んだ。そのスピードは終盤になっても衰えず8人をごぼう抜き、今井の区間記録を47秒も更新して東洋大学の初優勝に貢献した。その後も山登りのスペシャリストとして観客を楽しませている。
「彼の走りは見ていて実に面白い。普段は大人しいのに、走っているときは闘争心がものすごい。箱根人気は今井で1段階上がり、柏原で3段階上がりました」(生島さん)
苦悶する表情を浮かべながらも信じられないスピードで急斜面を駆け上がり、抜き去る瞬間に横目でチラリと相手を見る。新しい山の神は不敵なのだ。まさに“絵になる”柏原の激走見たさに、沿道の見物客がさらに増えた。
※女性セブン2012年1月19・26日号