1987年のテレビ中継開始以来、箱根駅伝の視聴率は回を重ねるごとに上昇し、大学スポーツで最も華のある大会のひとつとなった。
「箱根が国民的な人気になるに連れ、新興大学も台頭するようになりました」と語るのは早稲田大学の選手として1983年から4年間5区を走り、現在はNPOニッポンランナーズ理事長を務める金哲彦さんだ。
その象徴が留学生選手だ。1989年に山梨学院大学のケニア人留学生2人が外国人として初めて箱根に出場。1993年から同大のステファン・マヤカ選手(39才)が現早稲田大学監督の渡辺康幸氏(38才)と花の2区で繰り広げたデッドヒートは、箱根駅伝の歴史に残る名勝負となった。
相次ぐ留学生選手の増加を快く思わないファンも少なくなかったというが、未知の強豪が現れることで日本人選手が奮起し、全体のタイムをさらに押し上げたという功績もある。
しかし、光には陰が生じる。熱狂とともに弊害も生まれたと『箱根駅伝』(幻冬舎新書)の著者でスポーツライターの生島淳さんはいう。
「テレビ放送が始まり、大学にとっての宣伝効果が飛躍的に高まりました。しかも正月の箱根は大学受験の出願時と重なります。実際、柏原(竜二)選手の活躍で総合優勝した東洋大学は志願者数が大きく増えました。
少子化で学生の奪い合いをする状況のなか、大学経営と箱根駅伝が密接につながるようになった。学校の“本気度”を表す競技になったのです」
東洋大の志願者数は2009年、前年の約5万8000人から約6万7500人へと9500人も増加。入学検定料で数億円規模の増収となった。
有望な選手を入学させるため、青田買い的なリクルーティングも始まった。
「選手の学費や寮を免除したり、管理栄養士を完備するなどの好待遇で高校生を誘う大学もあります」(生島さん)
自ずと選手の側には、箱根出場を唯一かつ最終的な目標とする意識も芽生えてしまう。
「あまりに注目されるので、箱根を走ることで満足してその後の競技生活がぱっとしない“燃え尽き症候群”になってしまう選手が多い。箱根駅伝の趣旨は世界に通用するマラソンランナーの育成なのに、いまは目標がオリンピックでなく箱根駅伝という中高生が多いんです」(金さん)
※女性セブン2012年1月19・26日号