1930年に前身の教育団体、創価教育学会が誕生してから81年、戦後高度成長と時を同じくして爆発的に増やした信者数は、1000万人以上ともいわれる。創価学会という特異な宗教団体と池田大作というカリスマ指導者に迫った週刊ポストの連載『化城の人』。ノンフィクション作家の佐野眞一氏が、初代会長・牧口常三郎の生涯を辿る。(文中敬称略)
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荒浜から帰京してすぐ、静岡県の三島に行った。荒浜の七代目庄三郎から、三島にいる姉なら常三郎さんについて私より少し詳しく知っているかもしれないと聞いたからである。七代目庄三郎の姉の三井田矩子(八十三歳)は、約束した三島駅前の喫茶店に杖をついてゆっくりした足取りで現れた。
彼女は、「これは私が親から伝え聞いた話なので、正確さに欠ける部分はありますが……」と前置きして、常三郎の子ども時代の話をし始めた。それは、聖教新聞社や潮出版社発行のいわば“公式”の牧口常三郎伝とはかなり違う人間臭い物語だった。
公式の常三郎伝では、常三郎の実父の渡辺長松は北海道に出稼ぎに行ったきり消息を絶ったと書かれている。だが、彼女が親から聞いた話では、真相はこうだったという。
「長松は長七(常三郎)が産まれてすぐ、樺太で女をつくってしまったんです。それで荒浜には帰ってこれなくなった。奥さんのイネさんはたいそう悲しんだそうですよ。待てども待てども、夫は帰ってこないのですからね」
常三郎は父を海難事故で亡くしたのではなく、父から捨てられたのである。
聖教新聞社発行の『初代会長牧口常三郎』の「はじめに」に、こんな記述がある。
〈牧口初代会長は、晩年に到るまで、過去をあまり語らなかった。むしろ「過去のことにこだわる必要はない。我々は未来を見つめて前進していくのだ」とも語っている〉
牧口は、過去を語りたくとも、「語らなかった」のではなく、本当は過去を「語れなかった」のではないか。三井田の話を聞くうち、その思いは確信になった。
「もともと暮らし向きはそれほど良いわけではなく、将来を悲観したのでしょうね、ある日、イネさんは常三郎と姉を抱いて、海の中に入ってしまったそうです。ええ、入水自殺です」
父親に捨てられた上、母親に無理心中を強要される。常三郎は薄幸で塗り固めたような幼少期を送った。これでは過去を語りたくとも、「語れなかった」はずである。
「ところが、たまたま通りかかった船が、仮死状態の親子を助け上げたそうです。その船が、牧口船団だったんです。助けられた親子は、そのまま四代目の牧口荘三郎(この代のみ「庄三郎」ではなく「荘三郎」)の家に引き取られました。イネさんは、そのまま牧口家の女中として働いたそうです。それから死ぬまでずっと、結婚することはなかったそうです」
公式本では長七はその後、父の雇主で“大牧口”の縁戚だった牧口善太夫に養子に入ることになっている。だが三井田によれば、その話も違うという。
「実はこの四代目牧口荘三郎は、別名善太夫といいました。善太夫とはウチの四代目のことなのです。一般的には長七は善太夫こと荘三郎の養子になったといわれていますが、それは違います。長七は荘三郎の次男の牧口賢祥の養子となるのです。賢祥には女の子しかいなかったので、頭のよさそうな男の子がほしかったのでしょう。そして長七は牧口常三郎と名前を変えるのです」
ここまでの話は、親から伝え聞いた話である。
(連載『化城の人』第2回より抜粋)
※週刊ポスト2012年1月13・20日号