夫婦の出会いは様々。一体あの夫婦はどうやって知り合ったのか――“おしどり夫婦”として知られる西川きよし(65)・ヘレン(65)夫妻に、その驚きの出会いを聞いてみた。
ふたりの出会いは、ともに19才のとき。「吉本新喜劇のヘレンはマドンナ。ぼくは通行人」(きよし)だったというふたりが親しくなったのは、ヘレンが体調をくずし、たまたま劇場のすぐ近くにあった西川の家で休ませてもらったことに始まる。
きよし:ぼくの家は親父がふるさとの高知で事業に失敗して、大阪に出て両親と子供5人、ふた間しかない家に何とか住んでいた。そんなところへ突然来たヘレンは、浦賀にやってきたペリー提督みたいなものやった(笑い)。
ヘレン:西川のうちに寄せてもらうとは、思いもよらぬことでしたけど、家族のみなさんがやさしく親切にしてくださって。
きよし:親父が薬局に走ったり、氷を買ってきたり。おふくろはお粥さんを作ったり、ヘレンさんのためにと一生懸命やったなあ。
ヘレン:おうちにはいったときに、たとえてみれば床暖房がはいってるような温かさを感じたんです。母子家庭で育って、それまで、ただうらやましいと思うだけだった家庭のぬくもりというのを、肌で知ったんです。熱があるのに、嫌な顔されることなく、心から、“いらっしゃい”って肩を寄せ合って暮らしている家族の中に迎えてくださった。
きよし:“肩を寄せ合って”いうのは、うちの家が狭いということをいってるの?(笑い)
ヘレン:家族みんなが私のために、何かをしてくださるっていうことが、ほんとにうれしかった。そして、いつの間にか夕食もいただいたり、泊めていただいたりするようになって、ええ家族やなって…。それからずうっと西川の輪の中に置いてもらって、今日まで来ています。
きよし:昭和の30年代後半とか40年代の初めって、どこの家庭でもそういう生活でした。お母さんが市場に行って、お魚やお肉を買ってきて、お野菜と一緒に一品か二品作って、みんなが囲んで食べてたなあ。
ヘレン:いや、二品はなかったと思いますよ(笑い)。
きよし:そうか。家族の会話が二品目やったんやな(笑い)。何度もいうけど、極貧だったから、ぼくも小さなときから新聞配達や牛乳配達をして、家計を助けていた。親父さえ事業に失敗しなければと思う日々だった。ところが、ヘレンのお母さんからいろんな話を聞いてみると、母娘ふたりの苦労に比べたら、男のくせにくよくよしてたらあかんなと、180度気持ちが変わった。
ヘレン:(突然、きよしの眼鏡に手をのばし)あなた、眼鏡がずれてます。
きよし:まつげが長いから、ずれないと眼鏡に当たるんや。もう、そんなことはよろし。あるときおまえのお母さんがいうたんや。“ヘレンが小さかったころ、一緒に電車やバスに乗っていると、突然火がついたように泣く。見ると腕から血が出てる。大の大人がいじめていた。当時、混血児いうてどれほどいじめられたかしれない。そんな中で母と子は生きてきた”と。
こんな話を聞いたから、ぼくは(横山)やすしさんともあんなにいいコンビを組んで、頑張ってこられたんじゃないかなと思います。
※女性セブン2012年1月19・26日号