今年はいよいよ五輪イヤーだが、多くの日本人にとって思い出に残るのは1964年の東京五輪だろう。同年10月10日の開会式で国立競技場上空に描かれた五輪マークは、まさにその時代の象徴だ。その五輪マークを描いた飛行チーム「ブルーインパルス」の苦闘について、ノンフィクションライターの武田賴政氏が解説する。
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「ブルーインパルス(青い衝撃)」は、静岡県の航空自衛隊浜松基地で一九六〇年に誕生した曲技飛行チームだ。パイロットは編隊長の松下治英を筆頭に、淡野徹、西村克重、船橋契夫、藤縄忠と、予備機の城丸忠義を加えた六人。当時二十代から三十代前半の若い戦闘機教官から引き抜かれた腕っこきばかりだ。
“東京五輪スモーク作戦”を発案したのは、かつて帝国海軍連合艦隊の航空参謀として名を馳せた源田實。「ハワイ真珠湾奇襲作戦」の立案に携わり、戦後は航空幕僚長から参院議員に転身したカリスマである。源田の号令の下、これを具体化したのは編隊長の松下だ。
「机上案を何度か飛んで試した結果、速度二百五十ノット(時速約四百六十キロ)、二Gの荷重倍数で旋回して出来る、直径六千フィート(約千八百メートル)の輪が最適でした。高度は季節風を考慮しつつ一万フィート(約三千メートル)とし、東京都内の各所から見えるようにしました」(松下治英)
技術的なハードルは精確な五輪を描くための五機の位置どりだった。五機がそれぞれ一定の間隔で互いちがいのポジションを組むのだが、僚機との角度と距離感は何度も飛んで身につけるしかなかった。
練習は本番の一年半前から愛知県の伊良湖岬沖の空域で開始したが、何度やってもひしゃげたりしてうまくいかなかった。
本番二ヶ月前にJOC(日本オリンピック委員会)と自衛隊の幹部を基地に招待して行った予行演習でも失敗となり、一同はいびつな五輪を見上げてため息をついた。彼らは本番まで一度も五輪マークに成功していない。開会式の世界生中継は五輪史上初である。彼らのフライトはぶっつけ本番の賭けだった。
ブルーインパルスが埼玉県の入間基地に移動したのは、開会式前日の午後。その後、新橋の第一ホテルに投宿した彼らは、かねてから会合の約束をしていた映像製作会社のスタッフと食事に出かけた。そのとき都心には大粒の雨が降っていた。
「普段でもショーの前日はビールをコップに何杯か“おしめり”程度です。ところがあの日は食事を始める頃にはもうじゃんじゃん降っていて、誰かが『明日は雨だから開会式はノーフライ』と言ってた。じゃあ飛ぶのは閉会式だなと」(淡野徹)
店をハシゴした一行約十人が、日付もかわった午前一時をとうに過ぎておでん屋を出たとき、まだ雨脚は激しかった。そして開会式の朝、窓から射しこむ陽光で目をさました松下は、仲間を電話で叩き起こした。
「おい大変だ、晴れてるぞ!」
車で基地に移動した彼らは、戦闘機の操縦席に収まりエンジンを始動し、酔いを醒まそうと、冷たい酸素を思いきり吸いこんだ。大らかな時代の話である。
東京五輪組織委員会が作成したスケジュールは細かい。
「昭和三九年十月十日、十五時十分二十秒ちょうどに五輪を描き始め、ロイヤルボックスの正面に全景が見えるようにする」
ブルーインパルスが五輪隊形を整えるには五分間の直線飛行を要する。観客席の向きと速度から換算して、国立競技場から南西に約三十八キロ離れた神奈川県湘南海岸沖の江ノ島が起点となった。
そのタイミングをはかるため、編隊は湘南近辺の空域に一周六分間の周回コースを設定した。予定通りのスケジュールなら、選手宣誓の開始と同時に江ノ島上空を通過すればいい。
天皇が座る貴賓席からの見上げ角を考慮すれば、赤坂見附交差点上空で五輪マークを描くのが最も見やすい位置だった。選手宣誓の開始が十五時五分、その五分後に鳩が放たれ、天皇が大空を仰いでいるそのときに五輪が描きだされるという、何とも緻密なスケジュール。
※週刊ポスト2012年1月27日号