「ぶつけちゃいました」16日、眼帯姿で現れた野田佳彦首相。改造内閣が本格始動するまさに初日の出来事に「大丈夫なのか?」と不安視する声も少なくない。当人の説明では、前日の夜中、公邸の暗闇で右目の下を打撲したという。「急に電話がかかり、寝起きで急ぎでいこうと思ったら、柱にぶつかっちゃいました」と説明した通りなら、ただの不注意ともとれるが、この負傷に野田首相の“深層心理”が隠されていたとしたら見逃せない。駒沢女子大学教授で心理学者の富田隆氏が分析した。
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まず、今回の出来事を“象徴性”という観点から説明しますと、目は、物事の識別判断、あるいは正しい直感というものを象徴しています。負傷によって目が不自由な状態になる、視力が低下するというのは、正しい判断力や認識力、物事を正しく決断する能力に陰りがみえる、ということの象徴といえます。
今回のように顔の一部という大切な部分を傷つけてしまうというのは、はっきりいえば不注意ですよね。物にぶつかったり、足を踏み外したり、ちょっとしたけがや事故を起こしてしまうときというのは、その人が精神的に疲れている場合が多いんです。ストレスにさらされて精神的に参っている状態のときに、不注意でどこかにぶつけてアザができたりする。野田首相も過剰なストレスを抱えていた、あるいは精神的な疲れがどっと出たことにより、目をぶつけてしまったことにつながった可能性があるわけですね。
こうした負傷と、冒頭で説明した象徴性が重なる場合が実は多いんです。例えば、冗談みたいな話ですが、ちょっとした段差で足をけがしてしまった人が、何らかの理由で会社でのポジションも“失脚”してしまったというケースもある。本人はまったく意識していなくても、その人が置かれている状況と、実際にその人に起きたけがなどの現象が絡み合っているというのはよくあることなんです。
そう考えると、野田首相の目の負傷は、疲れたりストレスを抱え込んだりしている重圧からきているということがいえますが、それが目であるということは、判断力とか、何かをきちっと決断する能力に対しても、周囲から不安視されてしまう象徴的な出来事ということができるのです。もちろん、これまでの野田首相のさまざまな言動が、そう感じさせてしまう一因にもなっているわけですが…。