2011年12月17日の金正日の急死で、後継者の金正恩新政権が 想定外の早さで立ち上げられた。当初の予定では、今年1年間は金正日と金正恩で「双頭体制」を組みながら、金正恩の偶像化作業を大々的に繰り広げるつもりだった。その計算がもろくも崩れた格好である。金正恩は、まともな偶像化も整わないまま、急造で荒波に船出することになった。今後、金正恩体制はどうなるのか、関西大学教授の李英和氏がレポートする。
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今後の北朝鮮情勢は急激な不安定化を避けられない。結論を先取りすれば、服喪期間の一時的な政治休戦が明け、新政権発足から半年が過ぎた頃から、深刻な権力闘争が政権中枢で表面化し始める。そして、この権力闘争は、右往左往するばかりの金正恩を尻目に、今年中に何らかの決着を見るまで、熾烈に戦われる。この「決着」には2通りがある。
ひとつは、ある派閥が他を一掃して権力を掌握する道。もうひとつは、勝者が決まらずに抗争が延々と続いたあげく、権力の空白状態が生まれて金正恩政権が脆くも崩れ去る道である。筆者の予測では、後者の「決着」の可能性が高い。以下では、きな臭い派閥抗争の震源を探る。
金正日の急死直後、内外の報道機関には「北朝鮮は集団指導体制へ」との活字が大きく躍った。間違いではないが、きわめて不十分な分析と言わざるを得ない。未熟な後継者を頂く北朝鮮が現在、集団指導の下に政権運営を執り行なっている。そのことは事実である。
だが、金正日の急死を受けて、一夜にして集団指導体制が出来上がるはずはない。実際、この集団指導体制は、突然の非常事態にもかかわらず、混乱もなく粛々と新政権を切り回す。それが本当なら「神業」である。だが、事実は違う。
思い起こせば、2008年に金正日が脳卒中で倒れた時にも、政治的な混乱はまったく起きなかった。その背景には、その1年前(2007年)に金正日が発病した初期段階の認知症があった。認知症に気づいた家族と少数の最側近のみが、政治的な重要事項に関して、緊急避難で臨時の「集団指導体制」を密かに作ったのである。
この時点で事実上、北朝鮮は唯一指導体系に基づく「首領制」から離脱していたことになる。その延長線上で、2008年脳卒中と2011年急死の2度にわたる国難に際し、北朝鮮は急変事態を招くことなく、何とか当座の難局を乗り切った。その際に、安全網の役割を演じたものこそ、集団指導体制だった。
この意思決定制度の変化が、北朝鮮の内政と外交の両面に与える影響は計り知れない。同時に、北朝鮮情勢の分析にとって、まったく未知の領域でもある。そこで、2007年当時から、筆者は本誌などで注意喚起を繰り返してきた(拙著『暴走国家・北朝鮮の狙い』PHP研究所刊、参照)。
この2007年から始まる「集団指導体制」の数度にわたる変遷が、これから起きる最終的な権力闘争の震源地となる。そして、その鍵を握る人物は、集団指導体制の変遷の中、一貫して中心に座り続けてきた張成沢・国防委員会副委員長(金正日の義弟)である。
この張成沢は、金正日の国葬の際にも、霊柩車に寄り添って右側先頭を歩く金正恩の真後ろに陣取った。反対側の先頭は李英鎬総参謀長が固めた。李英鎬は張成沢と同盟関係を結ぶ人民軍トップである。この党と軍を仕切る両名が金正恩の後見人であり、集団指導体制で車の両輪の役目を果たすことになる。
※SAPIO2012年2月1・8日号