福島県出身の4人組バンド『猪苗代湖ズ』が紅白で叫んだ歌詞は、多くの人の胸を打った。リーダー・箭内道彦は、広告業界を中心に活躍する47才のクリエーティブディレクター。金髪がトレードマークで、数々の流行を仕掛けてきたその経歴に、郷土愛あふれるイメージはない。しかし、3.11は、「福島嫌い」を公言していた彼の心を大きく揺さぶった。そんな彼の生い立ちとは?
箭内は1964年、福島県郡山市で生まれた。両親と弟の4人家族で、実家は駄菓子店を営み、牛乳配達なども請け負っていた。実家の近所に住む70代夫妻がいう。
「お父さんは大柄な人で、お母さんは優しいタイプ。道彦くんは顔がお母さん似で、とても真面目な子でしたね。小さいころから忙しい夕飯時には店番をしていたし、牛乳の配達も手伝っていました」
小学校時代から絵を描くのが得意で、学校の成績もトップクラス。表に出て目立つタイプではなかったが、時折、独特の感性を見せることがあったと中学時代の友人は話す。
「あいつはフォークソングが好きで、とくに松山千春(56)に心酔してた。ある日、『松山千春のちょっと可愛い呼び名を考えたんだよね』って紙を見せられたんだけど、そこには『まちゃまちゃはる』って書いてあった。それで『これ、かわいーと思わね?』とかいうわけ。言葉にするとどうってことない呼び名だけど、あいつが書くと文字のバランスとかがセンスある感じになるんですよね」
高校は県内有数の進学校である安積高校へ。絵が得意だった箭内は、大学受験では志望校を芸術系の最難関、東京芸術大学一本に絞って挑戦する。しかし、失敗。福島を離れ、芸大・美大系の予備校にはいるために上京した。
その理由を、箭内は後に著書『クリエイティブ合気道』(アスキー刊)のなかでこう語っている。
<ずっと人の顔色ばかりうかがって暮らしてきた。実家が商店だったせいと生来の気の弱さ。とにかく周囲から嫌われないように。みんなからいいやつだと思われるように。それは誰にも言えない強烈なコンプレックスだった。もっと自由に天真爛漫に力強く伸び伸びと真っすぐ個性的に生きてみたかった>
無理に周囲に合わせていた自分。東京に行けば生まれ変われると信じたのだろう。
しかし、そうした思いとは裏腹に、芸大受験はうまくいかなかった。1年目の浪人時代、予備校では、講師から「明日が試験でも大丈夫」と太鼓判を押されていたが、試験結果は不合格。あまりのショックに腰が抜けて歩けなくなり、友人におぶさって上野駅まで運んでもらったという。
2浪目も失敗し、3浪目となった6月、箭内は母親・伸子さん(73)に呼び戻される。
当時、伸子さんは商売の手伝いと両親の介護で手一杯の状態だったからだ。
「みんな苦労しているのに、息子は東京でのんきに浪人生活か」
周囲から母親に向けられるプレッシャーが日増しに大きくなっていたのも、理由のひとつだった。そのプレッシャーは当然、箭内にも向けられた。伸子さんがこう振り返る。
「呼び戻すと、(道彦は)素直に帰ってきてくれて、何もいわずに、店の手伝いや介護も手伝ってくれました。でも、本人にすれば複雑な思いだったでしょうね」
その年の年末から翌年の1月上旬にかけて、相次いで祖父母が亡くなり、ふたりの葬儀を終えると、母親はすぐに箭内を東京に帰した。4度目の芸大受験のためだった。
実家にいる間、一枚も絵やデッサンを描くことはなかったが、今度は難関を見事に突破。箭内は東京芸大美術学部デザイン科への入学を決めたのだった。
※女性セブン2012年2月2日号