原発事故後、全国で放射線線量計の需要が急増したが、そのほとんどが海外製品。しかも、すぐに品薄状態となり、価格が高騰したことはよく知られている。そんな中、「ガイガーFUKUSHIMA」と名づけられた線量計が話題を呼んでいる。
国産でありながら低価格という点だけでも注目に値するが、驚くことに中心となって開発したのは原発事故の被害を受けた当事者である福島県内の板金加工メーカーだという。“畑違い”の中小企業が、なぜ線量計の自社製造を目指し、どのようにして製品化を実現したのか。その挑戦をフリーライターの池田道大氏が取材した。
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福島第一原発から西へおよそ60km、雄大な安達太良山の麓に広がる福島県大玉村。ここに工場を構える板金加工メーカー・三和製作所(斎藤雄一郎社長)が開発・製造し、昨年11月末に発売されたのが「ガイガーFUKUSHIMA」である。既に6000台を超える注文が殺到し、予約受付が一時停止されるほどの盛況ぶりだという。
まず目を引くのは、価格の安さだ。同程度の機能を持つ従来品の多くは約3万~5万円するが、同社の表示画面一体型は1万8800円(税込み)、iPhoneに接続するタイプは9800円で、毎時0.04~約400マイクロシーベルトまで測定できる。時間当たりの空間放射線量に加え、その値を年換算した値も推計可能だ。高エネルギー加速器研究機構(つくば市)の協力を得て、精度を確認している。
線量計と縁のなかった斎藤社長を動かしたのは、“地域が壊滅する”という危機感だ。
原発事故から約1週間後、一時避難先から村に戻った斎藤社長は汚染度を確認しようとしたが、需要が急増した線量計は1台5万~10万円以上にまで高騰した上、品薄で手に入らない。ようやく知人に借りて近辺を計測すると測定限界値の9.99マイクロシーベルトを簡単に振り切った。同じ頃、周辺自治体の発表する放射線量は2~5マイクロシーベルト程度だった。斎藤社長はこう説明する。
「自治体が発表する数値は庁舎3階ほどの高さで計測していたりして、全く信用できなかった。そのため、目に見えない放射線への恐怖から、子供を連れて避難するお母さんもいた。このような状況が続き、避難した住民が戻ってこなければ、やがて村が廃れてしまう。もし手元に線量計があればリアルタイムで計測し、対策を立てることができる。ここで暮らす人や避難先から戻ってくる人のために、安価で使いやすい線量計は不可欠です。ならば、人任せにしないで、自分たちで福島の実情に合った製品を作ろうと思ったんです」
しかし、斎藤社長以下12名の三和製作所には知識も経験もない。暗中模索で線量計の製造法を探る中、あるサイトを見つけた。そこでは、東京在住のフリープログラマー・森琢磨氏が線量計の一種であるガイガーカウンターを自作する過程を逐次公開していた。森氏が語る。
「当時は東京でも線量計が高騰して入手困難になり、被災者は困っているだろうと思いました。調べてみたらガイガーカウンターの構造は単純だったので、まずは自作してみようと考えたのです」
実は、ガイガーカウンターの部品は汎用品が多く、基板だけなら原価2000円を下回るという。森氏は“設計図”を公開する海外サイトを探し、ネットで購入した部品を使いコツコツと自作。その過程を「オープンガイガープロジェクト」と称してサイトに載せた。回路図のデータや部品リスト、さらに自ら開発したソフトウェアまで公開したのだ。森氏はその理由をこう話す。
「製造情報をオープンにすれば、専門家の力を借りられるし、大量生産も可能になる。その結果、安い線量計が作れると考えたんです」
ネットを通じて様々な知見が集まり、試作品は徐々に完成度を高めていく。この過程を斎藤社長が目に留め、森氏の基板が利用されることになったのだった。
続く難問はガイガーカウンターの“心臓部”であるガイガーミューラー管(GM管)だった。GM管とは混合ガスで満たされた円筒形の容器のこと。放射線が管内を通るとパルス電流が発生し、その電圧を利用して放射線の値を測定できる。GM管はチェルノブイリ事故後、旧ソ連領で生産が進んだが日本では製造されておらず、福島原発事故後はネット経由の輸入品がこれまた高騰した。
斎藤社長はGM管の自社製造を目指したが、GM管の自作には時間がかかると判明すると、方針を転換。調達先を海外に求め、ついにウクライナ製を輸入する独自ルートを築いた。
GM管の供給が可能になり、いよいよ線量計本体の製造を始めたのが昨年秋のことだ。基板製造、基板へのGM管実装、筐体の金型製造などを担ったのは、三和製作所と10社ほどの地元中小企業。たった一つの目的のために新たな“チーム福島”が生まれた。斎藤社長はこう話す。
「技術はあるけど原発事故で操業がストップしていた、地元の町工場に発注しました。事故以前から、町工場は不景気と円高の中で大企業から新しいデバイスの開発やコストダウンを要求され、鍛えられていた。我々にはものづくりで一番大事な経験と意気込みがあったんです」
※SAPIO2012年2月1・8日号