走った距離は裏切らない。野口みずきの口癖である。彼女が踏みしめてきたこれまでの“道”は平坦ではなかった。連覇を狙った北京五輪では、レース直前に左太ももの肉離れで欠場。一昨年の暮れ、左足首を疲労骨折。そして1月29日の大阪国際女子マラソンでは、またも左太ももの炎症で出場を辞退した。繰り返される悲劇――しかしそれでも野口はロンドン五輪を目指し、走り続ける。その原動力とは何なのか。ノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。
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昨年12月、山陽女子ロードレース(ハーフマラソン)を5位で走り終えた野口みずきは、私に対してこう語っていた。
「まだ、靄の中を走っている感じです」
表情は明るい。約1ヶ月半後に迫った大阪国際女子マラソン―ロンドンオリンピックの代表選考会を兼ねたこの大会で、靄を切り裂いてやろうという意気込みだけは強く感じられた。
しかし、今となってみれば、彼女の言葉はこの事態を予見していたのかもしれない。
野口は、レース4日前の1月25日に、大阪国際への出場断念を発表した。やはりレース直前になって欠場にいたった北京オリンピックと同じ轍を踏んだのだ。欠場の理由は左太ももの炎症である。
歴史は繰り返す。これでもかというように、野口を追い詰める。そして彼女はいまだ深い靄の中にいる。
野口が最も輝きを放ったのは、もちろん2004年8月22日に行われたアテネオリンピックだろう。私はゴール地点となるパナシナイコ競技場で彼女がゴールテープを切る瞬間を見届けた。
野口は所在なさそうにゴール周辺をうろついたあと、シューズを脱いで手に取り、そっと口づけをした。彼女なりの返礼儀式だった。
野口のゴールに少し遅れて、競技場に戻ってきたのが父・稔と母・春子だった。36キロ地点の沿道で声援を送った稔は、大混雑に巻き込まれて足をねんざし、ゴールには間に合わなかったのだ。春子は春子で、稔より先にツアーガイドの運転するバイクの荷台に跨がって競技場に向かったが、バイクを降りてからの道中で息切れを起こし、酸素吸入を受けていたという。
三重県伊勢市に暮らす稔と春子にとっては結婚後初めての海外旅行だった。金メダルの瞬間を見届けることはできなかったが「無事に帰ってきてくれたのだから十分」というのが、偽らざる本音だった。
※週刊ポスト2012年2月10日号