1960年代後半、GSブームの頂点に立った『ザ・タイガース』。41年前に解散コンサートを行ったあの日と同じ1月24日、場所も同じ日本武道館で行われた『沢田研二LIVE』の最終公演で、ザ・タイガースの元メンバー5人が顔をそろえた。彼らも還暦を迎える年代になった。
2005年、沢田研二(63)、森本太郎(65)、岸部一徳(62)の3人がNHK『SONGS』に出演すると、瞳みのる(65)へのメッセージを込めて3人でつくった曲を披露した。瞳が京都に向かう前に一徳に伝えた「一緒に帰ろう」という言葉をもとにした、『Long Good-by』という曲だった。元メンバーの瞳は、ザ・タイガースの解散後、芸能界を去り、以来、約40年間、ザ・タイガースとの縁を絶ち切ってきた。
この歌のことは人づてに瞳の元に届き、彼の心を揺り動かした。そして2008年秋、大きな転機が訪れる。瞳が勤務する高校を、ザ・タイガース時代のマネジャー・中井国二さんが訪れたのだ。
「仲のいいグループを台無しにしてしまって、申し訳なかった」
中井さんはこう謝罪するとともに、沢田が瞳に会うために、瞳の行きつけの居酒屋に通っていることなどを伝えた。瞳のなかにあったわだかまりが、しだいに溶けていった。
2008年11月。渋谷の居酒屋で、沢田、森本、一徳と38年ぶりの再会。瞳の顔を見ると、森本は「会いたかった」といって、いきなり泣きだしたという。
2011年、沢田が中心になって、沢田が毎年行っているツアーに元のメンバーが参加することを企画。8月から、週5日、1日5時間にも及ぶ本格的な練習をスタートさせた。
コンサートの初日まで3週間に迫った8月中旬、瞳とメンバーの仲をとりもった元マネジャーの中井さんが病死した。ザ・タイガースの復活を置き土産にしたかのような最期。メンバーは悲しみに打ちひしがれながらも、「中井さんのためにも、ステージを成功させよう」とより結束を強めた。
森本、一徳、そして瞳がゲストとして参加した沢田のツアーは、全国38公演。沢田は「全員揃ってのタイガース」にこだわり、四郎にも最終日への参加を呼びかけた。一徳は弟の健康を気遣って最初は反対していたが、「四郎も目標を持つことで元気になる」と沢田に説得され、納得したという。
そして1月24日、冒頭のように、四郎もステージに上がり、ザ・タイガースは一夜限りの“復活”を遂げたのだった。森本は次のように語った。
「シロー(岸部四郎)は歩くのもやっとで、体調を崩したら、当日来られるかどうかもわからない状態でした。だから、シローが登場したときは『体は大丈夫か』『ちゃんと歌えるのか』と心配で心配で…シローがしっかり歌いだしたときはホッとしましたね。ピー(瞳)も実は2009年に脳溢血で倒れている。ドラムはものすごくハードだから、38公演すべて最後までやりきってくれたのは、本当に嬉しい」
沢田はステージ上で、「命ある限り、全員揃ってのザ・タイガース。近い将来、それが実現することを願っています」
と力をこめて語った。一部で報じられたが、それはザ・タイガースについての沢田の考え方との違いから、今回のツアーに参加しなかった加橋に向けたメッセージだった。大成功に終わった武道館公演の夜、先に帰った四郎を除くメンバーたちは、都内のイタリア料理店で打ち上げを行った。森本がいう。
「昔話をして、たくさん笑って…41年前の夜とは違ってずっと楽しかったな」
41年前は打ち上げ後、すぐに京都へと向かった瞳。しかし、今回は2次会にも参加した。2次会は、メンバーたちのかつての合宿所があった中目黒近辺。瞳は本誌の取材にこうコメントを寄せた。
「公演は夢のように過ぎました。ぼくたちザ・タイガースにとって武道館は大事な思い出を保管していき、今後も保管していく特別な場所です」
日本人として初めて単独ライブを開催し、解散コンサート、そして復活コンサートを行った日本武道館。淡々とした言葉のなかに、ザ・タイガースへのあらゆる思いがちりばめられている。ザ・タイガースのメンバーはすでに還暦を過ぎ、ファンも皆、年を重ねた。
これまで生きてきたなかでいろいろなことがあったけれど、だからこそいまは本当に大切なものの意味がわかる。ずっと振り返ってこなかったけれど、決して手放したくないものの存在に気づく。人はそれを、青春と呼ぶ。
※女性セブン2012年2月16日号