沖縄の暴力団はこと無軌道な点については群を抜いているといわれる。40年以上にわたり暴力団を取材してきたジャーナリスト・溝口敦氏の新刊『抗争』(小学館101新書)によると、1970年代の沖縄の暴力団の内部分裂を機に引き起こされた「沖縄抗争」は凄惨さを極めていたという。(文中敬称略)
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1975年2月、アジトに「一年前、お宅の賭場で負けた。二十万円だ。払うから取りに来てくれるか」と電話があった。上原組では資金が底をつき、ノドから手が出るほどカネに飢えていた。
上原組の仲宗根隆、前川朝勝、嘉陽宗和の三人は車で嘉手納村の指定場所に向かった。しかし、現場では殺された新城喜史の一派七人が待ち受け、上原組の三人はたちまち手錠をはめられ、車に放り込まれて拉致された。
三人は沖縄島の北端近く、国頭村楚洲の山林に運ばれ、車から下ろされた。やはり上原勇吉の居所を吐けと迫られたが、三人はほんとに知らなかったのか、吐かなかった。
新城一派七人は三人に穴を掘れと命じた。しかたなく三人は長時間かけて深さ約二メートルの穴を掘った。七人は三人を穴の中に蹴り入れ、「最後に聞く。上原の居所はどこだ」と言った。三人が黙っていると、リーダー格の男が「しかたない。撃て」と命じた。一派は38口径のリボルバーで三人を次々に撃った。
三人は穴の中で次々と倒れた。七人は土を掛けて埋め戻した。と、嘉陽宗和だけは生きていて、必死に土の中から這い出し、崖下に逃げようとした。七人は嘉陽に気づき、追い詰めるとナイフで胸や腹を刺し、頭を撃って絶命させ、再び穴を掘り返して嘉陽の死体も放り込んだ。
暴力団の抗争は西に行けば行くほど激しさを増すといわれるが、たしかに新城一派のこの殺しはむごたらしすぎる。関東圏の抗争はおおよそ命を取ればよしとする。沖縄に比べれば、淡泊に見えるほどだ。
※溝口敦/著『抗争』より