40年以上にわたり最前線で暴力団を取材し続けてきたジャーナリスト・溝口敦氏は、新刊『抗争』(小学館101新書)の中で、大阪戦争とよばれる暴力団抗争で田岡一雄・山口組三代目組長を撃った鳴海清・大日本正義団組員の壮絶な最期(1978年)について、こう紹介している。(文中敬称略)
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9月17日、神戸市六甲山中の瑞宝寺谷でハイカーが男の死体を発見した。当初、死体は鳴海と特定できず、単に鳴海かもしれないといわれた。
ガムテープでぐるぐる巻きにされた死体は連日の暑さで腐乱し、ウジがわいていた。顔は白骨化し、指先は崩れて指紋採取は不可能だった。背中に天女の刺青らしきものも見えたが、肉眼での判別は難しかった。
加えて前歯四本が折られ、手指の爪は右手の三本を残して抜かれ、右足の爪もはがされていた。少年院時代に真珠二個を埋めたという性器は無事だったが、これで鳴海と特定はできない。ものを言ったのは背中の刺青の赤外線写真と腹巻きの中のお守りに入れられた子供の写真だった。
大阪・西成の彫り師は写真を見て、1972年、一年がかりで彫った鳴海のものに間違いないと認め、鳴海の内妻は彼との間に生まれた長男、長女のスナップ写真だと、泣きながら答えた。
解剖してみると、鳴海の胃からは菜っ葉と飯粒の他に出ず、遺体の損傷振りから鳴海への虐待、リンチが推定された。鳴海は誰に、どう殺されたのか。兵庫県警は鳴海を匿った忠成会が鳴海を手に余し、殺したものと推定した。(中略)
兵庫県警は鳴海を後ろ手に縛っていた手拭いから生産地を三木市と特定し、忠成会幹事長・衣笠豊ら五人を鳴海の殺害容疑で逮捕したが、その後最高裁で殺人について無罪が確定、誰が鳴海を殺したか犯人不明のまま1993年、時効を迎えた。
※溝口敦/著『抗争』より