2011年3月15日付の米ニューヨーク・タイムズ紙が、度重なる水素爆発の後も福島第一原発に残った「無名の50人(the faceless 50)」の作業員たちを讃える記事を掲載した。以後、海外メディアが「フクシマ50」の呼称を使って、現場の作業員の勇気と行動を称賛し、国内メディアがそれに追随した。その彼らは、事故から1年が経とうとする今、どんな状況に置かれているのか。そして、事故当時をどう振り返るのか。
福島第一原発が立地する福島県の海岸沿い地域、通称・浜通りでは、2月の最低気温は氷点下になる。原発の敷地内で作業を続ける東京電力の協力企業社員の一部では今、インフルエンザが流行しているという。
「作業員たちは、1F(福島第一原発)に向かう途中のバスや1F内の休憩所で、大人数で一緒にいることが多く、インフルエンザなどが流行りやすい環境です。夏場は熱中症が問題になりましたが、今ある問題は寒さだと聞きます。彼らの装備は夏と同じで、長袖、長ズボンの下着にタイベック(防護服)。その上に綿のツナギを着ているので、体を動かせばそんなに寒くはないという人もいますが、我慢できない人は自分でパッチ(股引)を用意したりしているそうです」
こう語るのは昨夏に自ら作業員となって1Fに潜入した、『ヤクザと原発』(文藝春秋刊)著者のフリーライター・鈴木智彦氏だ。「2月上旬には、私が一緒に作業をしていた協力企業社員、いわゆる“フクシマ50”と呼ばれる人たちのうち数人がインフルエンザにかかって高熱を出していた」(鈴木氏)というが、そうした作業員たちが置かれている苛酷な環境や肉声について、新聞・テレビはほとんど報じない。
原発作業員たちが「フクシマ50」と呼ばれるようになったのは海外での報道がきっかけで、その定義は曖昧な部分も多い。3月11日の震災発生後、福島第一原発には東電社員と協力企業社員、合わせて約800人が作業していたが、12日に1号機で、14日に3号機で水素爆発が発生。翌15日には4号機で爆発と火災が起き、東電は敷地内にいた多くの関係者に退避の指示を出した。その中で50~70人が現場に留まり、懸命に復旧作業にあたったとされている。
この作業員たちを海外メディアが「フクシマ50」と報じた。ただし翌日以降は100人単位で人員が追加投入されており、そうした初期段階で福島第一に入った作業員の総称として、「フクシマ50」が用いられることも多い。
いずれにせよ、彼らの肉声は、東電の情報管理の厳しさもあって、表に出ることは非常に少ない。
※SAPIO2012年3月14日号