まだ1年なのか、もう1年経ってしまったのか。
文字通り日本の国土と国民を根底から揺さぶった烈震と津波、そして原発事故が残したものは、個々の土地、そこに暮らす国民ごとにすべて違ったはずだ。1年前、ビートたけし氏は本誌上で、「これは2万人が死んだ一つの事件ではなく、1人が死んだ事件が2万件あったってことなんだよ」と述べた。
「まだ」と感じるか、「もう」と感じるかは、それぞれが過ごした1年のあり方によって様々であるのは当然だ。必死に毎日を生き、新たな人生と社会を目指した人にとっては「もう」が強いかもしれないし、いまだ悲しみと苦しみから抜け出せない人には「まだ」の感情が勝るだろう。一人ひとりの万感と、国民それぞれの万感が積み重なって1年という時間が過ぎた、そういうことなのだ。
苦痛はいずれ癒えていくとしても、いくつかの傷跡は残る。しかし、傷跡は痛みの記憶となり、再び悲劇を招かないための知恵を生むはずだ。震災直後、私たち週刊ポストは「日本を信じよう」と呼びかけ、こう書いた。
〈失われた命は戻らないけれど、その死にも、国を復興させる意味と力があるに違いない。教訓を活かし、決して諦めずに前に進もう。もっともっと美しい東北の港町と、強い経済と、そして災害に負けない暮らしを作り上げることこそが、真に大災害に打ち勝つことになるのだから。〉
当時、岩手県宮古市で両親と妹を濁流にさらわれた4歳の少女は、覚えたてのたどたどしい字で、「ままへ。いきてるといいね。おげんきですか」と宛先のない手紙を書いた。「パパから電話がかかってくるかな」と、父が遺した携帯を握りしめて眠った(読売新聞より)。
誰もその心を救う術を知らず、ただ胸をかきむしられたが、いま少女は5歳となり、新しい時間を生きている。いつまでも感傷と同情だけでは国も人も前に進めない。未来の話が必要なのだ。
厳しい目も持たなければならない。政治や行政の怠慢、東京電力はじめ電力業界の改まらぬ姿勢だけではない。報道の自己検証はもちろん、すべての企業・国民の利己や無知もまた反省の糧とすべきだろう。今日現在、避難生活を続ける被災者は34万人に上っている。日本の「万感365日」がどういうものであったか、そこから未来をどう築くのか。
もう十分に課題は見えている。そして、まだ出来ていないことは山ほどある。
※週刊ポスト2012年3月9日号