震災から間もなく1年。約7万本の松がことごとく津波にさらわれた中、復興の象徴として立ち続ける岩手県陸前高田市の『奇跡の一本松』は、その命を全うしようとしている。
この町で被災した住民たちは、松が生き延び、蘇ることを強く信じている。村上美江子さん(81)もその一人だ。
昭和6年にこの地で5人きょうだいの末っ子として生まれた村上さんは、今回を含め三度も津波の被害に遭っている。最初は昭和8年3月、岩手県や宮城県で死者、行方不明者合わせて3000人以上の被害を出した『昭和三陸地震津波』である。
「私は2歳でしたから記憶にありませんが、聞いた話だと、それはひどかった。母親が私を抱えて逃げている最中、近所の人がタンスにしがみついたまま流されていく様が目に入ってきた。でも何もできない。ただ眺めるしかなかったと、後になって母から聞かされました」
父親を早くに亡くしたこともあり家は貧しかった。終戦後は高等教育を受けず、すぐに裁縫をならって働き始め、20歳になり嫁いだ。
「夫はタクシーの運転手と農業を兼業していました。『外に出たら話を聞く側に回れ』という人で、自分のことはあまり喋らない。寡黙で、東北人らしい優しさを持った人でしたが、今から5年前に亡くなりました」
苦しい生活を余儀なくされたこともあったが、妻として2人の息子の母親として生活を支えてきた。
そんな折、またもや津波が襲いかかる。二度目は、昭和35年5月、日本の裏側に位置するチリで地震が発生し、その影響で三陸地方を津波が襲った。死者142人を出した『チリ地震津波』だ。
「高田松原の防潮林のおかげで多少は被害を食い止められましたが沿岸部の家は倒壊し、家の前まで瓦礫が流されてきた。津波にのまれた町は本当にひどい状態になりました」
しかしそれから50年余り、陸前高田市は見事に復興を遂げた。開発が進み、沿岸部には大型スーパーや住宅街が整備。村上さんの次男も4000万円をかけて家を建てた。
新築の家が流されたのは、それからわずか半年後のことだった。三度目の津波は1年前の東日本大震災での大津波だ。
「3月11日は病院に行く予定だったけど、体調が悪かったのでコタツで横になっていたんです。すると突然ドンという大きな音と共に家が揺れた。近所に住む長男が、『これはただの地震じゃない。家から出ろ!』と叫んだんです」
家の外に出ると道路は既に車や逃げ惑う人で渋滞していた。皆、海から離れようとしているところだった。村上さんが沿岸部に目をやると、大きく黒い波しぶきが立っていた。
「一度目は堤防に跳ね返されました。しかし二度目。さらに大きくなった波が堤防を乗り越え、防潮林の松を次々となぎ倒してこちらに向かってきた。メキメキ、ガチャガチャという建物を壊す音が、表現が変だけど気持ちが悪いぐらい静かに向かってきたんです」
自宅は高台に建つため、津波の被害からは免れた。だが、古くから知る友人は何人も命を落としていった。村上さんは足が不自由で歩き回ることも容易ではなかったが、震災後すぐ自分にできることを探したという。
「農家だから野菜の蓄えがあったので、家にあった食材は全て援助しました。中には千円札を握りしめて、『食事をわけて』といってくる人もいたけど、受け取れません。家にあるものは無料で配りました」
今、陸前高田市は三度目の復興に向けて動き出している。沿岸部には津波に強い防潮堤が整備され、住宅地は高台移転や地盤の嵩上げをしたうえで再開発される予定だ。
撮影■小倉雄一郎
※週刊ポスト2012年3月9日号