福島第一原発事故からまもなく1年。海外メディアは「フクシマ50」と名付け、現場に残った作業員の勇気と行動を称賛した。フクシマ50として現場にいた作業員たちに、事故当時とそれからの1年を振り返ってもらった。
事故発生当初に現場で作業にあたり、今も働き続ける人間もいる。東京電力の下請け会社の30代の作業員は、状況の“変化”をこう説明する。
「今は一日仕事をして0.01ミリシーベルトほどで、線量は下がっています。事故直後のように『よし、誰も行かないなら俺がやってやる!』みたいな変なテンションもなくなりました。ただ、状況が好転したとは思っていません。冷温停止状態になったとか、そんなのは話題にもならない。東電の言うことなんて、最初から信用してないんで。
変わったのは待遇で、給料はみんな結構下がっていると思います。夏場の半分くらい。自分の場合は日当が手取りで1万円以上減りました。夏場まではあったJヴィレッジでの食料配布もなくなった。
その代わり食堂がオープンしましたけど、作業員が使っているのはまず見ない。あんなところで、わざわざメシなんか食いたくないですよね。年度末で予算もないんでしょう。実際、仕事もあまりなくて人が余っている状況です。4月になれば少しは変わるのかもしれませんが」
最初に「フクシマ50」について報じたニューヨーク・タイムズ紙は作業員たちが、日本人特有の、集団のための「自己犠牲」の精神を発揮していることを讃えた。しかし、彼ら一人ひとりの心中はそう単純なものではない。
「日ごろから東京電力の原発関係の仕事をしていました。事故が起こった時、本当なら被曝や爆発に巻き込まれる危険性が高い現場なんて行きたくなかった。でも、断わると今後、東電や勤務先から仕事をもらえなくなるんじゃないか、という心配があり、頼まれたら行くしかなかった。
それなのに現場で最も緊張が高まっていた3月15日に、原子力安全・保安院の人たちは、原発から50キロも離れた郡山に避難した。それを聞いて、『そんなバカな』と怒りがこみ上げましたよ。あんな連中がいたから、作業員がフクシマ50だとか呼ばれるんです。僕らは、現場に残っていた時に、自分を英雄だなんて決して思っていませんでした」(40代の下請け作業員)
※SAPIO2012年3月14日号